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心の歴史を探究する〜「生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる」の紹介、もしくは骨ばった要約〜

「心」とは何でしょうか?

 「心なんて脳内現象にすぎない」というものが、科学の発達した現代において最も説得力のある解答でしょう。脳内にあるシナプスの電気信号が伝達されることで生じるのが心であると。この考えを押し進めると、「心」=「コンピュータ」というメタファーが可能になります。もちろん現在のテクノロジーではとても到底できそうにないですが、原理的には可能なはずです。シナプスの電気信号の一つ一つは、閾値以上の電気が流れるか/流れないかのどちらかであり、それを合算したのが心というのなら、それは0/1の2進法の合算であるコンピュータと相似関係にあるからです。

 はたしてこのような「心」の考え方こそが唯一の正しいものなのでしょうか?いままでの歴史の流れは、この解答に迫るための進化史であったのでしょうか?


 今回は「生成と消滅の精神史」(著:下西風澄)を紹介・要約します。

 かつてフーコーは「人間は発明である」と言いました。「人間」という概念はもともとあるものではなく、時代の環境によって生み出されたものだということです。同様に、「心も発明である」と言えるのではないか、というのがこの本の基本前提です。私たちは心を何らかのメタファーを通して理解しているのであり、そのメタファーは時代や環境に左右されているのです。本書は西欧哲学を軸とし、「心」という概念がどのようなメタファーで捉えられてきたかを通覧していきます。本書は豊富な例を提示しながら進めていきますが、今回はそれを思いっきり刈り込んで骨格だけを追っていきます。味気ないような気もしますが、気になる人は本書をぜひ一読することをおすすめします。

 まずはソクラテス以前の古代ギリシア。端的に言って、「心」という概念がありませんでした。もう少し穏当に言うと、今の時代の「心」とはまったく違う「心」だったということです。人々は神の声を聞いて、その神の命令を受けて行動していたのです。感情や意思など、普通個人属するとされるものはすべて神の侵入なのです。
 さらに「心」、もしくは「魂」は、「風」のメタファーで捉えられていました。人が死ねば「心」は口から漏れていき、胡散霧消していくのです。不変の「心」という概念はありませんでした。
 次で、ソクラテスがもたらした「心」。神の侵入でしかなかった意思や感情を、ソクラテスは個人の中へと取り込んでいきました。その個人を制御するような統一体としての「心」。この統一=制御する「心」というイメージは、すでにしてコンピュータと相性の良い心概念を先取りしています。しかしソクラテスは完全に合理性に振り切ったわけではありません。彼はよくダイモーン(霊)の声を聞いていました。つまり閉鎖的な心システムで完結するのではなく、神への通路も用意されていたのです。

 それに対してのデカルトです。デカルトは方法的懐疑の果てに、全ての根本基盤である「心」を発見しました。デカルトの「心」は森羅万象全てを下支えするようなとても「強い心」と言えます。しかしそれは「心」に負荷をかけ過ぎたとも言えます。デカルトの「心」の裏面には、その重荷に耐えきれない「弱い心」も隠れています。
 その裏面を体現するのがパスカルです。彼は神というつっかえ棒のない「心」に耐えきれず、気が狂う寸前でした。神羅万象と対等関係にある「強い心」。しかしそれは、「心」一つでこの世界と対峙せねばならない孤独の闘いでもあるのです。神による理由付けもない「心」。どう生きるかの指針もなく、気を許せば世界に飲み込まれてしまう恐怖感。
 そのような裏面もありながら、このような森羅万象を制御する「心」を、一つの到達点へと押し上げた人がいます。カントです。彼は「心」が世界を認識するためにはどのような機能を持っていなければいけないかを究明しました。カントの「心」は内容物を持たず、どこまでも形式的です。世界を可能にする形式としての心、つまり超越論的な心です。カントの考えは大変認知心理学と相性がよく、それの一つの祖とみてもいいでしょう。

 カントによって完成された「心」は完璧で純粋な主観であり、対象から何の影響も受けず、淡々と現実を生成させていくものでした。このような閉じられた完璧な心に対して、環境からも影響も受けて生成変化していく心を、これからみていくことになります。
 まずはフッサール。フッサールと言えば現象学の祖です。現象学では、主客の分割などを一旦忘れ、実際に現れている知覚経験をスタート地点とします。意識に現れる知覚は刻一刻と変化してきます。目の前の風にさらされているスミレを見るとき、私たちは写真を撮るようにしてスミレをとらえず、現在のスミレの中に過去と未来をみます。左右に揺れるスミレ。今は真ん中に位置しているが、ちょっと前は左にあり、ちょっと経つと右に位置するだろうスミレ。意識はこのように過去・現在・未来を含み込んだものであります。本書では、「残響と予感の永遠なる持続」、「永遠のフロー」、「始まることも終わることもない無限の流れ」などと表現されます。さらに意識は単独で存在せず、身体・他者・生活世界などの周りに影響されながら、絡み合っています。
 ついでハイデカーです。ハイデカーは人間=現存在を出発点として存在一般の探求を進めていきました。人間は世界に内属しながら、尚且つ世界を所有する捻れた存在であり、この捻れの中でこそ哲学をするべきと考えました。ハイデカーはそれを「円環歩行」と呼びました。
 ハイデカーのキー概念は死・道具・気分・生命です。まずは死。人間色々なことは自分がいなくても大概のことは他者がやってくれますが、死は誰も変わってくれません。つまり死は根本的な自分ごとで、その死を受け入れることが大事だ、というのが通俗的ハイデカーであり、実存主義と名指される所以でもあります。しかし後半の、道具・気分・生命は別のハイデカー像を作り出します。簡略的に言えば、道具によって世界のネットワークに接続し、気分によって透明な意識の底にある不安定な基盤を想定し、生命によって人間の特別性を均し、動物と並列的に扱う。そのようにして凝り固まった心をほぐしていきます。

 ここまで哲学を眺めてきましたが、ここで視点を転換し、認知科学に目を向けていきます。認知科学は冒頭で述べた「心」=「コンピュータ」というメタファーを獲得するになった主要な学問分野です。全てを計算可能に繰り込もうとする認知科学ですが、どうしてもはみ出してしまうものがあります。主観性という幽霊、もしくはクオリアというものです。いくらニューラルネットワークについて調べても、ありありと現れているこれに関しては何の説明にもならないということです。
 そこでヴァレラという認知科学者が登場します。ヴァレラは、脳があるだけで意識は存在せず、身体もなけらば意識は存在しないのだと主張しました。認知と行動の融合、これをエナクティブ認知と呼びます。脳は世界を映し出す鏡のように対象を表象するのではなく、身体と世界の接触によってその都度対象を生成させていくのです。心と世界のインターフェスである身体が世界に反応し、トライアンドエラーを繰り返していく。そのような世界との格闘によって学習されたものこそが意識の正体だというのです。

 そして本書の締めは(このあと日本編があるので西洋哲学編の締めという意味ですが)、メルロ=ポンティーです。彼は主観ー客観の世界像を解体し、対象と身体が渾然一体となる世界像を打ち立てました。そもそも世界が主観ー客観に分割されるのはなぜでしょうか?それは視覚による世界像を優位に捉えているからでしょう。見ることにより、見る主観と見られる客観が存在し、世界の位階構造が現れる。しかし知覚を触覚に移してみるとどうでしょうか?すると世界は主観ー客観の世界像から変化します。私は触りながらも、対象によって触られている。どちらが主体であるのかわからない状態です。メルロ=ポンティーはこのような触覚的世界を視覚世界にも当てはめます。そうなると主客身分のアマルガムな世界が現れてきます。このような全てか渾然一体となった世界像を彼は「肉の哲学」と呼びました。
 しかしこれを世界との合一を目指す神秘主義と混同してはいけません。もちろん、意識は透明で常に上位に存在し世界を掌握するような特権的世界像は否定されました。しかし同時に、意識と世界の境界線を完全に無くした原初の混沌に回帰するということも同時に否定されねばなりません。どちらも極端に過ぎるのです。私が世界を包み込むが、世界も私を包み込む。このような世界との耐えざる拮抗状態こそが大事なのです。となると、心は閉じられた終わりのある存在ではなくなります。「独立して完結することのできない綻びた心は、終わらない会話を続けるように、世界と共に切り結ぶ」のです。


 本書の豊かな具体例や心動かされる記述を削いだ紹介になり、魅力を減じた要約になっていますが、全体像はこのような感じです。私はなんかは全体を知ってからの方が読書が楽しくなる人間なので、そのような一助となれば幸いです。

 まだ日本編もあるのですが、今回はここまで。

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