【一人読書会】道徳の系譜学 第13回 

ニーチェ著・中山元訳「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)の読書記録。
以下本編開始。


第二論文 「罪」「疾しい良心」およびこれに関連したその他の問題

二 責任と良心

 「約束できる動物を育成すること」、これが責任の長い歴史の由来であり、これはとても法外の仕事であるという。この仕事を成し遂げるためには、膨大な過酷さと暴圧と愚鈍と愚痴が含まれているという。
 道徳とは天から与えられた崇高な理念などではないということだ。ニーチェはその点を強調するため、このような道徳を「習俗の道徳」と呼ぶ。

 となると道徳なんてものは不要だ、と即断したくもなるが、そうでもないらしい。ニーチェは次のようにいう。

 わたしたちがこの法外なプロセスを、その到達点から眺めてみるならば、すなわち樹がその実を熟させ、社会とその〈習俗の道徳性〉が、そもそも何のための手段であったかが明らかにされる地点に立ってみるならば、この社会性という〈樹〉のもっとも字成熟した果実が〈至高な個人〉であることをみいだすだろう。

道徳の系譜学 p101

 「習俗の道徳」は不要の長物ではなく、「至高な個人」に到達するための必要なプロセスだとみなしている。もちろん「至高な個人」を達成するためには捨て去られるべき段階でもあるのだが。「至高な個人」がどんな存在かも確認しよう。

 これはただ自分だけと等しい個人であり、〈習俗の道徳〉からふたたび離れた個人であり、自律的な存在として、道徳性を超越した個人である(「自律的」ということと「道徳的」ということは互いに否定しあうものだからだ)。要するにこの個人は、独自の、自主的で、長期的な意思をもった人間であり、約束することのできる人間である。

道徳の系譜学p101

 まずは自分だけと等しい個人。前節で約束できる存在となるためには、計測可能な均質な存在になる必要があることを指摘していた。民主主義的な平等な権利を持つ個人は「至高な個人」ではないということだ。誰ともイコールで結べない存在。
 続いて自律的な存在。自律的であることが道徳と相反する性質であることを指摘している。道徳というのは、どこまで崇高なものであろうと、外部から与えられた「汝、すべし」という形で与えらえる必要がある。たとえ表面上は同じような行動とをとっていたとしても、自分で考えてそう行動したのなら道徳ではない。そのような他者からの「すべし」を超越した自律的な個人こそが目指される。
 そして長期的意思を持ち、約束することのできる人間。道徳は脱ぎ捨てられるが、単に野蛮な状態へ回帰するのではないということだ。長期的な意思をもって自分の人生の舵をとり、なおかつ約束できる存在になること。
 しかし、そんな都合の良い状態が達成できるだろうか。「至高の個人」は、自分だけと等しい個人と定義している。そんな人間が果たして約束をすることができるのか。なぜ対等ではない人間と約束を取り結ぶことができるのか。対等でない人間同士では、搾取するかされるかの二択になってしまうのではないか。
 理想状態を考えるなら、お互いに自分だけと等しい個人であることを認めながらも、そのような認識を持つ点では同等だとみなすことで、約束を交わすことができると考えることができるだろう。
 もしくは約束するのは異時点の自分だと解釈することもできるだろう。過去の自分が決めたことを未来にまで貫徹する能力も十分約束する能力だと考えられるだろう。
 とはいえ、本書はそのような「至高な個人」を達成するためのものというよりは、そのような段階に一向に到達しない現状の分析に重点が置かれているから、これ以上深入りはよしておこう。

 そのような「至高な個人」こそ真に約束のできる存在であるとし、「運命に抗する」力を持つという。自分のような性質を持つ存在に対して尊敬を抱くようになるが逆に、自分を律することのできない個人に対しては、「足蹴にする準備」、「懲らしめの鞭を振るう準備」ができているという。

 そのような「至高な個人」から良心という概念が出てくるのだという。

 責任という異例な特権をめぐる誇り高き知、このごく稀少な自由についての意識、自己自信と運命まで支配するこの力の意志は、彼の心のもっとも深いところまで降りてゆき、彼の本能になっているのである。--もし必要となったときの話だが、彼はこの支配的な本能をどう名づけるだろうか?疑問の余地もないことだ。この至高な人間はそれをみずからの良心と呼ぶのだ……。

道徳の系譜学p103

 ニーチェのいう至高の個人は、典型的なストイック人間といえるだろう。至高な人間には約束がもし守れなかったら、なんて考えは微塵もないはずだ。それを強靭の意志の力でやりこなす。それも義務感でこなすというよりは、そのような本能に駆り立てられて義務を果たしてしまう。このような本能を「良心」と呼ぶのだという。

 ここでの自由の概念は面白い。自由とは一般的にいえば、自分の本能の赴くままに行動することができることを自由というだろう。それに対するカント的自由をあげれば、本能を抑制して義務に徹することこそが自由であるとなるだろう。
 対してここでの自由は、本能に従いながらも約束を守るという義務は果たしてしまうという状態をいう。本能的でありながら自分を律することができる。だが、これを誇り高き知と呼んでいるから、本能とも少し違うのかもしれない。
 しかし果たしてそんなことは可能なのかと、どうても思ってしまう。ニーチェは現状に対する憂いのため、理想的な状態を至高な個人に映じているようにもみえる。そのような漂白された約束は成立可能なのか。そこにどうしても、「自分にだけ等しい個人」が複数存在しるという問題が生じてきてしまう気がする。他人からの約束を守るのは自律的なのか。それはどうしても他律的=習俗の道徳とかしてしまうのではないか。もっと根本的には、唯一の存在の複数化という問題が残ってしまうだろう。


今回はここまで。

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