相対主義の極北を読んで。-第7章 「ない」よりももっと「ない」こと-

 ある二者が議論していたとします。両者は真っ向から対立する意見を持っています。しかし二人はある点では一致せざるを得ません。何らかの根拠をもとに主張をするという構造は一致せざるを得ません。もしその一致さえなければ、二人は対立すらできないでしょう。

 これは規則レベルでの差異を経由することで、それに先行した透明な一致が現れるということです。規則の従い方への一致、メタ規則の一致です。

 しかし透明の一致が一度実体化してしまうと、それに対立する別の不一致が想定できます。メタ規則の不一致です。ですが、そのメタ規則の不一致でさえも、不一致と認識できるためには、さらなる透明な外側の一致を想定せざるを得ません。でないと、不一致とすら認識されないでしょうから。言うなれば、メタメタ規則の一致です。

この運動は次のように記述できます。
⑴不一致の発見
⑵透明な一致の出現
⑶透明な一致から可視化された一致への転落
この⑴〜⑶をぐるぐると循環、もしくは螺旋状に上昇していくのです。

 ここで、「ない」ことよりもさらに「ない」ことを見ていくため、集合論的に順序数を生成する議論を瞥見します。
 これは空集合φを起点として、冪集合によって次々に要素を生み出していく運動を見ていくことになります。

 では具体的にいきましょう。
 まずは空集合があります。これは要素が何もないです。つまり0ということです。
 次に空集合を、つまり0を要素にもつ集合を考えます。空集合=0が1つあるということです。これは1ということです。
 さらに、0を要素にもつ集合と、0と1を要素にもつ集合の2つの集合が考えられます。空集合=0と空集合の空集合=1が二つあるということになり、これは2ということです。
 …あとは以下同様に3、4、5…と自然数が展開されていきます。

 ここで大事なことは、空集合であることと、空集合が要素としてあることの2つが区別されているということです。「何もない」ことと「何もないことがある」ということ。
 この二つはどちらが根源的でしょうか?一見、空集合であること=0が根源的であるように感じれます。0の次に1があるのだから。
 しかし、空集合がある、という認識が得られない限り、空集合=0は捉えられなかったとも言えます。この視点に立つと、空集合がること=1が空集合=0を生成しているとも言えるのです。
 0と1はこのように始原を争うのです。
 言い換えると、0が根源だという素朴な直感が転倒して1が根源となる。しかしその1の根源性をさらに抹消して0に還っていく。このような循環運動が生まれるのです。

 ではこの始まりの覇権争いの循環運動はどのような力によって備給されているのでしょうか?それは「空集合以前」の何かではないでしょうか。「ない」とすら言えないような「なさ」。

 前章では、一番外側の、概念枠が蒸発した後に、「私たち」が残ることを確認しました。これも上の空集合のような運動をしていると言えます。

⑴概念枠同士の不一致
⑵透明な「私たち」の出現
⑶透明な「私たち」の可視的な「私たち」への転落

 さて、ここでも空集合と同様、透明な「私たち」以前を想定することができます。上のような循環運動には決して巻き込まれないような、「私たち」の未成立。
 この「私たち」の未成立の段階こそ、なんでも飲み込んでしまう相対主義に対する非対称的なもの、共役不可能なものなのです。

 ここに相対主義の極北を見ることができます。それを次のような3点でまとめています。
① 反復する「私たち」
② 「私たち」の未出現
③ ①と②の断絶

 外側の透明な「私たち」はある意味絶対的な存在です。全てのものをその内側へと飲み込んでしまうからです。しかし相対主義を煮詰めた先に出てきた、「私たち」の未出現の段階。これはなんでも飲み込んでしまう相対主義を、有限にしてしまうものになります。ブラックホールのような相対主義も、これを飲み込むことはできないからです。
 相対主義における透明な私たちは、永久機関のような反復運動を止めることができず、つねにすでにそれに遂行せざるをえません。もしも世界にそのような永久反復運動しかなければ、それは絶対的です。しかし絮橋不可能な「私たち」の未成立があることで(すでにあるということ自体がおかしいと思いますが)、絶対的だと思えた「私たち」も運動もなかったことが想定され、反復運動の始まりの偶然性がどうやっても残ってしまうのです。

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