【一人読書会】道徳の系譜学 第4回

ニーチェ著・中山元訳「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)の読書記録。
以下本編開始。


第一論文 「善と悪」と「良いと悪い」

一 イギリスの心理学的な道徳研究の功績

 序章の流れのまま、まずはイギリスの道徳研究について一定の評価を加えながらも、文句を言っている。何を評価しているのかというと、道徳の発生の歴史を調べようというその独特の試み自体について。では何について文句を垂れているのか?以下の通りだ。

 わたしのみるところ彼らは、(中略)人間の内部世界の〈恥ずべき部分〉を前景に押しこんだ、ほんらいの意味で効果的で、指導的で、発展のためにもっとも決定的な要因を、人間の知的誇りがもっとも望まないところに探しだそうとするのである。(たとえば習慣の惰力とか、忘れやすさとか、無意識的で偶然的な観念の結合や力学とか、あるいは純粋に受動的なもの、自動機構的なもの、反射的なもの、分子的な者、根本的に愚鈍なもののうちにである)

 要は、道徳的である理由を、決定論的な根拠づけで考えようとしていることに文句があるということだ。例えば、なぜ道徳的であるべきか?という問いの答えに、「他人のためになる方が生存に有利なため、道徳的に行動するような感情が人間という生き物に埋め込まれている」という仮説が考えらるだろう。この回答はある程度、納得のいくものではないだろうか。しかし、ニーチェはこれに不満がある。人間の性質上そうであるという説明は、上の引用の括弧内の言葉を使えば、自動機構的なものであるだろう。それは人間というものはそう出来上がってるのでどうしようもないという決定論的なものである。
 他にも道徳的である理由は考えられるだろうが、どれも上の引用の括弧内のどれかに回収されるような物言いになってしまうのではないだろうか。そこには人間の意志がない。それがニーチェの不満なのだろう。

 p33のところは何のことを言っているのか?ここはよくわからない。ここはそのまま宙吊りにして進めいこう。

二 〈良い〉と〈悪い〉という概念の起源

 イギリスの心理学者(道徳研究者)の悪口をもっと詳しく語っている。彼らは、「良い」という概念と判断の起源のところでもう間違っているのだと指摘している。イギリスの心理学者の典型的な道徳起源説を次のように紹介している。

 「人間はそもそも利己的でない行動を、その行動の恩恵をうけ、それが役に立った人々の側から称賛して、それを〈良い〉ものと呼んだ。後になると、称賛したのがどのような経緯だったかという問題が忘却され、利己的でない行動そのものが、習慣的につねに良いと称賛されてきたという理由で、良いものと感じられるようになったーそれが〈善〉そのものであるかのように。」

 上の理由は、先の節でも紹介した「習慣の惰力」とか「忘れやすさ」が使われていることがわかるだろう。「有用性」・「忘却」・「習慣」・「錯覚」。

 ではニーチェは、どこに善悪の起源があると考えているのか。それは高貴な人々が使う「良い・悪い」という言葉遣いの中にあるとする。先のイギリス心理学者の引用では、利他的な行動をされた側が良いという判断を下していた。しかし高貴な人々は、自身に対して心地いことが起こるときに「良い」という言葉を使うのだ。自身が、周りの低ものたち、心情の下劣なものたち、粗野なものたち、賎民たちとは違って自分は良いというのだ。

 貴族にとっては有用性という言葉は程遠い。そんな小賢しい損得勘定など似合わない。そこには得をするためなら相手に謙ったりするなどという思惑は一切ない。そういうゲスの奴らと違う、そんな奴らと一緒にされたくないという高貴な人々の感情を、距離のパトスと呼んでいる。
 貴族たちは、高貴さと距離のパトスのために、低俗な人たちに対して、持続的で支配的な感情を抱くのだ。

 ではなぜ貴族的な善悪が廃れたしまったのか?ニーチェはそれを「家畜の群れの本能のため」と表現した。


今回はここまで。

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