【一人読書会】道徳の系譜学 第8回

ニーチェ著・中山元訳「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)の読書記録。
以下本編開始。


第一論文 「善と悪」と「良いと悪い」

十一 高貴な種族と凡庸な種族

 高貴な人間は、まずは自分の素晴らし状態を「良い」と表現し、それに付随して反対物の他者を「悪い」と表現した。対してルサンチマン的人間は、まず相手が「悪い」のであり、それに対する自分が「良い」のだ。
 ともに同じ「良い」を使っているが、その意味することが全然違うのだ。

 その後、高貴な人間の行動様式をさらに詳しく語っていく。
 彼らは自分と同等の「良い」人たちを、ルサンチマン的な根性で「悪い」とは表現しなかった。彼らは互いに嫉妬し合いながらも、お互いを対等な存在と見なし、習俗・尊敬・習慣・感謝によってお互いを抑制し合っていたという。
 しかしそんな彼らも、一旦共同体の外に出れば、その抑制は外れてしまう。引用してみよう。

 彼らはこうした異邦において、社会的な強制から解放されて自由を享受するのだ。社会の平和という〈檻〉の中に長いあいだ閉じ込められて、囲われていた間に生まれていた緊張を、この荒野で気軽に解き放つのである。彼らは猛獣のもつ意識に立ち戻り、怪獣のように小躍りする。彼らはおそらく殺人、放火、陵辱、拷問のような戦慄するべき行為を続けても、まるで大学生風の騒動をやらかしたかにすぎないかのように、意気揚々と平然として戻ってくるのである。そしてこうした騒動のおかげで、詩人たちが歌い、称える材料ができたと信じているのである。

  旅の恥はかき捨てと言わんばかりの行動。なんと野蛮で悪い奴らだろう!しかし、目を曇らせてはいけない。わたしたちは高貴な人たちの行動をしらずのうちに、奴隷道徳の物差しで測っている。そうすれば野蛮で悪いだろう。しかし、ここではその奴隷道徳の物差し自体が疑われているのだ。だから彼らを悪いと判断するのはここでは保留するしかない。
 この野蛮さは、彼らの力の自然な表出であり、自由の謳歌にすぎない。相互性の原理など、ここでは意味をなさない。

 次に文化について言及している。ニーチェは文化の意味を次のように語る。

 現在において「真理」と思われていること、すなわちすべての文化の意味は「人間」という猛獣を従順に開化された動物に、すなわち家畜にまで飼い慣らすことにある

 文化とは先ほどの高貴な人間の獰猛さを手懐け、家畜化するものであると切り捨てる。さらに続けてこう言う。

 反動とルサンチマンの本能こそが、文化の真の道具である

 文化と言う人間を家畜さするものを主体とみなすなら、その主体が使う道具こそが反動とルサンチマンということだ。ニーチェにとって、文化とは人間の高尚さを示すものでなく、高貴な人間を家畜化する恥ずべきものであり、人類の退化を示すもなのだ。


今日はここまで。

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