【一人読書会】道徳の系譜学 第2回


ニーチェ著・中山元訳「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)の読書記録。
以下本編開始。


序章

「四 道徳の系譜学の前史」

 ニーチェは、自身の道徳起源説を発表するきっかけを、パウル・レー博士の『道徳的な感情の起源』にあるとしている。その著作に魅了されたというが、それは自分と対照的なものをそこに見たためだ。しかしニーチェは頭ごなしにそれに反論をしようとせず、次のように語っている。

反論することなど、わたしの仕事ではない!(中略)積極的な精神にふさわしい形で、ありえないものの代わりにありうるものを語り、場合によっては誤謬の代わりに、別の誤謬を語ろうとしたのである。

 ニーチェは何かを否定することで自身の立場を表明するのでなく、肯定の形で表明しようとしているのだ。

 レー博士の道徳系譜学を「純イギリス風の仮説」とニーチェは形容した。それは功利主義的な考えだ。功利主義的な考えでは、利他的な価値づけこそを道徳的な価値なのだとみなす。

「五 同情の哲学」

 ニーチェはショーペンハウアーを師として仰いでるが、こと道徳に関してはその師と対立していた。どの点が対立ていたか次のように語っている。

とくに議論が対立したのは、「非利己主義的なもの」について、同情の本能、自己否定の本能、自己犠牲の本能の持つ価値についてだった。これらのものをショーペンハウアーは長いあいだ美化し、神化し、彼岸のものとしていたため、ついに彼にとっては「価値そのもの」となってしまったのである。

 同情や自己犠牲などはことに道徳的な用語のように感じるだろう。それらはあたかも賞賛されるべきもの、言祝がれるべきもののように扱われている。さまざまな物語でも自己犠牲はつきものだろう。しかしニーチェはそこに腐臭を感じるとる。先の引用に続いてニーチェはこう語る。

そしてショーペンハウアーはこれに基づいて、生に対してそして自分自身に対して、否と語ったのである。

 道徳的行為は端的にいえば、自分が損をし他人が得をする行為のことだ。となると、道徳的な神秘の価値の皮を剥げば、そこには自分の生を否定するものしかなくなる。

 続けてニーチェは、ショーペンハウアーだけでなく当時の哲学者たちは同情というものを過大評価しているとみなし、これはその当時の新しい潮流であるとした。プラトン・スピノザ・ロシュフーコー・カントの名前をあげ、互いの思想は違うが全員同情を低く評価している点は一致してることを指摘した。
 同情というものが一つの現代病として世に蔓延っていると診断したということだ。

「六 道徳の危険性」

 道徳というものがいいものだ、というのはもうトートロジーのようなことであり、そのことを疑問に思うのは馬鹿げていると感じるほどだ。多くの人はそれを前提として、どのような行為がより道徳的なのかを議論していく。その人のためを思って嘘をつくのは道徳的なのかどうか?などという疑問がその具体例だ。
 しかし、道徳というものはどうして無条件で良いものとされるのか?道徳というものが初めから価値を有しているのはどうしてなのか?これがニーチェの疑問だ。次の部分を引用してみよう。

わたしたちは道徳の価値の批判が求められている。道徳の価値の価値そのものに、ひとたびは疑問のまなざしを投げることが求められているのである。

 どのような方法で道徳の価値そのものを探究するのかというと、系譜学的な方法によってだ。さらに引用を。

 そしてそのためには、これらの価値が生まれ、発展し、変遷してきた条件と状況についての知識が必要となる。(何らかの結果としての道徳、兆候としての道徳、仮面としての道徳、偽善としての道徳、失病としての道徳、誤解としての道徳(後略))

 上の引用の最後では、これでもかというほどに道徳の多様な負の側面をあげている。一つ一つを取り上げるのでなくまとめてしまうと、道徳をそれ自体を目的として扱うのではなく、手段として扱うとどうなるのか?ということになるだろう。
 「なんで道徳的なことをするの?」と幼子が質問すれば、大人は「当たり前だろう」と答えるしかないだろう。日常ではそうするしかない。しかし哲学は真実を扱う。道徳は当たり前に守るような尊いものなのだろうか。道徳はなんらかの目的を果たすための一つの手段に過ぎないのではないか?道徳をその次元に引きづり下ろして考えを進めていくということだ。

 功利主義的な視点で言えば、道徳は人間の総体の最大幸福を実現しするものだとするだろう。進化生物学的な視点で言えば、道徳的な行為は人間をより繁栄させるのに適した行為だったから、人間は生き延びたのだとするだろう。
 しかしニーチェは道徳の中に反対の兆候を感じとっている。

しかしどうだろうか?もしその反対が真理だとしたら?どうだろうか?「善人」のうちにも退化の兆候が含まれているとしたら、同じように危険が、誘惑が、毒物が、麻酔剤が含まれていて、そのおかげで現在が未来を犠牲にしながら生き延びているのだとしてら?(後略)

 激しい言葉で道徳を非難している。何がニーチェをこれほど駆り立てるのか?ニーチェも道徳に対してアンビバレントなものを感じ取っていたのではないだろうか?俗な例を言えば、好きな子に対してついつい減らず口を聞いてしまうように。道徳的でありたい、しかし道徳的であることに腐臭を感じることは拭い去れない。そんな思いがったのだろうか。


今回はここまで。

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