【一人読書会】道徳の系譜学 第9回

ニーチェ著・中山元訳「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)の読書記録。
以下本編開始。


第一論文 「善と悪」と「良いと悪い」

十二 人間に倦むこと

 奴隷道徳的な人間に対する嫌悪が止まらないニーチェ。早速引用しよう。

 わたしがどうにも耐えがたいと感じているものは何だろうか?(中略)それは汚れた空気なのだ!汚い空気なのだ!出来損ないの魂のはらわたの臭気を嗅がなければいけないことなのだ!

 本当に道徳の欺瞞が嫌なのだなとつくづく感じる。こちらもなんだか胃が痛くなってくる。ここの部分は解釈するというよりも、ニーチェのバッドバイブスがこちらにも伝染してくる。これがニーチェの原動力なのだろう。なおかつ、ニーチェを自滅へと追い込んでいく力のような気もする。

 人間全体が卑俗で平均的になることに対して倦んでしまうとニーチェはいう。そしてこの流れは止まることはないことにさらに一層倦んでしまうという。この人間に倦んでしまうことことをこそニヒリズムに呼ぶにふさわしいと付け加える。

十三 弱気ものの自己欺瞞

 これまでは貴族的な道徳に関する善悪の起源をみてきた。ここからは奴隷的道徳に関する善悪の起源にはいっていく。

 ここでニーチェは、主体という概念を想定することに対して否定的な態度をとる。急な流れのようだが、ここはまずニーチェの議論に耳を傾けてみよう。

 ある量の力とは、ある量の欲動、意欲、作用である−−むしろ力とはこの欲動、意欲、作用そのものである。そう見えないことがありうるとすれば、それはすべての作用が、作用するものによって、すなわち「主体」によって生まれると考えさせ、誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない。

 力=欲動・意欲・作用であり、力は何らかの主体が所有するものではないという。
 ニーチェは雷の例えをだしているが、自分には分かりにくいような気がする。自分でわかりやすい例えでいこう。
 例えば風。風は気圧さによって引き起こされる。それだけ。風神様みたいな主体が息をふーっと吹きかけているわけではない。あるのはここでは作用だけだ。風神様なんて主体はない。


 ニーチェはこの主体の誤謬といものが、さまざまなものに蔓延しているという。引用してみよう。

 私たちの科学もすべて、冷静で、情動に左右されることはないと称してながらも、言葉の誘惑に負けているのであり、騙されて「主体」という〈取り替え子〉を押し付けられ、これを追い払うことができないのである(原子というのは、こうした〈取り替え子〉の一例である。カントの「物自体」もそうである)。

 ここがいまいち意味が掴めない。原子の場合何が主体の位置になるのだろうか?原子は主体というよりも客体では?原子があることはどういう意味で騙されたことになるのか?物自体も同様。どういうことか?
 書きながら考えてみる。原子の例でいこう。水素Hという原子。中学理科の知識だが、火を近づけるとボッと音を立てて燃える。これは水素原子の持つ性質である。しかしニーチェに言わせれば、火が音を立ててもえる作用をもたらす水素原子なんてものを想定することがナンセンスということか?あるのは火が音を立てて燃えるという作用だけということか?
 科学技術が発達した現代に生きるわれわれ視点だと、原子を想定しないことの方が誤解のもとのような気がするがどうだろうか?これは完全に脱線なので、これくらいにしておこう。

 いろいろと文句を言ったが、この主体という幻想を想定することにより、弱者は強者に対して罪を着せる権利を手にすることができるのだという。どういう理路でそうなるかを簡単い拾っていこう。
 弱者はシンプルに力がない。それは本人の選択ではなく、ただ弱いという性質があるだけだ。弱者は自分で弱者であることを選んでのではなく、ただそうであるだけだ。それをあたかも自らが進んで弱者の立ち位置を主体的に選んだようにして、「弱いものこそが善い存在なのだ」と宣言する。主体が自由を行使して弱さを選んだということにするのだ。そして強者はそのような選択をせずに、傾向性に任せ放埒に行動する。そんな主体性のないものこそが「悪い」のだと断罪するのだ。

 この意味で主体を導入するのは十分に理解できる。やはり、原子などの自然な物質はそもそも主体的に行動しないため、それに主体がないと言っても何のことだかわからない。もしかするとニーチェのいう主体は、私思っている主体とは違った意味を持つのかも知れない。
 対して、人間のような普通主体を導入するものに対して、いや主体はないのだと主張することは、その意味は十分わかるし、ここはある種の真実をついていると思う。


今回はここまで。

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