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ブルトレはタイのチェンマイへ向けひた走る

 目が覚めると、霧をまとったなだらかな山々を背景にして田園風景が広がっていた。畑や、水をたたえた水田が広がり、線路がまた山間に入ると東南アジア特有のソテツ科の生物が勢いよく繁っていた。蔦植物が成長の遅い広葉樹に絡みつき、覆い尽くしてしまうと枝の先から行き場を失ってだらしなく垂れ下がっていた。ところどころに竹林も混じり、日本の原風景を思わないでもなかった。

 ルイーズとピートはどこかへ出かけていなかった。すると通路を例の小豆色の制服のおばさんが通りかかり、「お、お前起きたな。ブレックファースト、持ってくるぜ? ワイルドだろ?」 的なことを身振り手振りで教えてくれた。白人連中が帰ってきた。

「How was breakfast?」と聞くと、「俺らは朝飯は食ってない。ただ食堂車でコーヒーを飲んできたんだ。ワイルドだろ?」 的なことを言っていた。

 とことん貧乏旅行をしようという魂胆らしい。奴らの長い夏休みを考えると、この先一ヶ月もあるのだから日々節約をしていかないと先が続かなくなるのかもしれなかった。また彼らは背が高いので一見スラリと見えるが、ルイーズは二十七、ピートに関しては三十ということもあり、Tシャツから覗く腹周りが少しだぶついてきているので、少し食べないぐらいでよいのかも知れない。

 髭を剃りたいと思った。私のように黒い髭が頬にボソボソと生えているのはみっともない。ルイーズとピートは金やブラウンのそれで一面に覆われていて、いかにも外人然としていてうらやましかった。奴らはあんなだから髭は剃らなくてもよい。しかし、ルイーズは大丈夫かも知れないが、ピートはそろそろ頭皮の第二の進化が始まっているように見受けられた。カッチョイイ髭をたたえている報いだと思った。髭に頭皮の養分を吸われているのだ。

 しかしそれでもルイーズはハンサムだったし、髭も頭皮も問題はなさそうだった。なぜだ。不公平だろう。私はピートと徒党を組んでルイーズに抗議も辞さない構えだったが、よく考えると、世の中とはそもそも不公平にできていることを思い出し、他人の頭皮環境のことなどすぐにどうでもよくなった。自分がはげていないことが重要なのだ。

 その点、私はピートに勝っていた。ピート哀れなり。しかし、彼らは今回の旅のために一ヶ月もサマーバケーションを取っており、やはり哀れなのはたった一週間の休みでも歓喜する日本人の私かも知れなかった。

 朝食のお粥さんセットが届いた。

 これがとてもおいしい。

 とてもとてもおいしい。

 タイにきて今のところコレが一番美味しい。バンコクではローカルの店は小汚く、質の悪いガソリンの排気ガスのせいか世知辛い都会の暮らしのせいかは知らないが、店員の目が死んでいるので入る気がしなかった。しかし昼飯を食った小綺麗な店は客が白人旅行者や、妙に流暢な英語でつまらない職場のグチをくっちゃべるタイ人がいて興ざめした。

 しかしこのお粥さんは最高に美味しかった。タイ米のお粥なので、中華や日本のそれよりも米がモロモロとしていて味がよく染み、あまりベチョッとしない。私はベチョベチョというか、ネットリとしたお粥はあまり好きではないので触感がとても好みに合っていた。

 最高だ。ありがとう小豆色服のおばさん。

 味付けは、中華風のお粥にも似ていたけれど、レモングラスのような香草がパラパラと入っていて、パクチニストの私にはたまらない味付けだった。もう二、三倍入れていただいても一向にかまわない。日本なら別皿パクチーをリクエストしているところだ。やはり現地のパクチーは歯ごたえと味わいがひと味違う気がした。

 すっかり食事も食べ終えてご満悦の塩梅でしばらく居ると、

「チェンマイ! テンミニッツ!」「チェンマイ! テンミニッツ!」

 と叫びながら乗務員が巡回し始めた。なるほど、そろそろ準備しないとな、と思って準備をすませた。十分ほどすると、前へ向かっていった先ほどの乗務員が、「チェンマイ! テンミニッツ!」「チェンマイ! テンミニッツ!」と言いながら前から戻ってきた。先ほどと変わっていないではないか。

 そうこうするうちにようやっと駅に付いた。チェンマイだ。


列車から降りて列車を見上げた。十三時間をともにした、随分とくたびれながらもなお力強く活躍しているタイカラーでもある高貴な紫色に塗り替えられたブルトレの車体は、やはり名残惜しかった。

 そんなわけで、この列車はバンコク・チェンマイ間、タイ国鉄特別車両でありした。このブルトレはJR西日本から十年ほど前に譲り渡されたそうです。コレに乗りたいなあ、と思ったのがチェンマイに目を付けたきっかけでもありました。ブルトレがなければチェンマイには来ていないでしょう。ありがとうブルトレ。

 チェンマイの手前、スコールが上がった食堂車の車窓から、給仕のおばちゃんたちと並んで顔を突き出し風を感じた風は最高でした。

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