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"推す"が正解の愛だと思ってる

始めに、この記事はあくまで自分自身の価値観を語るものであり、決して世間一般の価値観ではなく、押し付けもするつもりもないことを記します。

愛って、難しい。
愛が時に形になったりして、少子化対策になったりもして、そこからまた新しい愛が生まれて……世間で言う"愛"には、世の中に対するメリットがたくさんあるのかもしれない。
自分の"愛"には、世間一般的には何の価値もないことも、人のためにならないことも、受け入れ難い事実ではあっても、理解はしているつもりでいる。

"推す"
その行為は、愛だ。ひどく、一方的な。
自分がどれだけ愛に溺れて踠いても、大好きなあの人にその気持ちが届くことはほぼ0%に近い。LOVEも、LIKEも、彼らには届かない。
でも、それで良い。私は大好きな"推し"たちに愛されることを望んでいない。ただただ、愛していたい。その全てが"LOVE"ではなくても、彼らの生き様を、私はただただ愛していたい。

恋愛でも、家族愛でも、友愛でもない、だけれども紛れなく"愛"で、好きで好きでたまらなくて、胸がはち切れんばかりに苦しくて、見守っていたくて、この感情は一体何なんだろうと思う。それはもう物心がつかないうちからオタクをしているのに、答えは未だに見つからない。だけれど、この感情はひどく心地が良い。
"恋愛体質"という言葉がある。私も、恋愛でこそなくとも、人を好きでいないといられないタチらしい。

幼い頃に親が離婚をし、また、再婚をした。再婚後も夫婦仲は、良くない。祖父母の夫婦仲も良くない。昔から、愛のない不可思議な繋がりばかりを目にして、気が付けば生身の人間との恋愛や結婚に対して嫌悪感を覚えていた。
対して、"推す"ことは楽で良い。"推す"ことで、相手に迷惑をかかることは、マナーを守れる普通のオタクとして生きていればなかなかない。肯定もされなければ、否定もされない。深い仲にはなれなくとも、代わりに衝突することもない。
オタクの愛は"消費"なのかもしれない。けれども、私にとってはお金と引き換えに"愛すこと"を許され、"愛されること"がない、"推し活"が楽で、愛しくて、生きる理由の全てだ。

"推す"が正解の愛だと思ってる。だって、否定も肯定もされずに、対価と共に大好きでいることが許される。それは私にとって、ひどく、楽園だから。

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