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そして溺死する

 外を見てみると、紫陽花がそこら中で咲いていることを知る。紫陽花の青紫は鮮やかすぎてどうも好きにはなれなかった。青紫だけでなく、赤でもなんでも、私の脳と紫陽花の鮮やかな色は相性が悪いらしく、目を閉じても浮かぶ紫陽花の鮮やかな残像が、元からまとまりにくい思考を更にかき乱していくのだ。かき乱すだけかき乱して、そのまんま、残像は薄れて空しさだけを残す。その感覚が嫌いだった。
 像を残させるより前に素早く風景から目を外して、車の窓ガラスに目を留めると、窓ガラスには雨粒が葉脈のように広がっていることに気付く。青紫色の背景にある緑色の風景と合わせて見てみると、自分が葉の中にいるような錯覚に陥った。もし、この車が葉であれば、私たちはどういった存在になるのだろうと、ぼんやり考えてみる。青葉がなにになって、私はどうなるのだろう。ぐるぐるぐると、どんな風に考えてみても、どうしても目に入る鮮やかな青紫色に思考を攫われていってしまって、脳みそは答えを探し出してくれない。
 助けを求めるように、運転席でハンドルを握る青葉の横顔をそっと眺める。高い鼻に薄い唇、二重のまぶた。整っているとしか思えないような顔。二十七年の間、私は何度この横顔を眺めただろうか、見当もつかない。随分長い間連れ添ってきたが、あと一時間ほどでそれを終わらせるのだと、彼も私も決めてしまっている。今更さびしいだとかかなしいだとか、思うことすら出来なくなるほど長い道のりだった。思い返してみると、いつもどこか空しい想いを持っていたような気がするのは、彼のこの顔のせいかもしれない。
 どこか私と似たような顔をしている彼はフロントガラスの先の風景を注意深く見続けている。そのせいで彼はちらりとも私を見ない。彼は誠実や剛直などというお堅い言葉が似合う人だ。しかし、彼が勤務する高校の生徒たちは彼のことをどうやら優柔や温厚などと思っているらしいと、彼から聞いた。
「どう思う?」
 小首を傾げて聞いてきた彼に私は鼻笑いを一つプレゼントして言葉を添えた。
「そんなの嘘っぱちだ、なんて言えはしないけれど、的は外しているね」
「なかなか手厳しいね」
「だって、あなた、冷たいんですもの」
 私がからかうように、責めるように言えば、彼は口元にだけ笑みを浮かべて「それは君もだよ」と、困ったように言っていた。
「ねえ、青葉」
「ん?」
 フロントガラスの先にある風景を見ながら青葉は私にたったそれだけを返す。たったそれだけだというのに、いつもと変わらない返事に安心したのか、それとも、一瞬の青葉の声が私の思考を紫陽花から奪い取ってきたのか、砂時計の砂が重力に従って下へ下へと落ちていくように、考えが緩やかにまとまっていく。別に青葉がなんだって、私がなんだって、この状況は変わらないのだ。雨が降る山道を走っている車を運転するのは青葉で、私の人生を左右させるのだって青葉だ。たとえの話は空しく、雨粒と共に車体に弾かれてばらけていくようだった。
「なんでもないや」
「……若菜はたまにそういうところがあるよね」
 それだけ言い終えてから青葉は口角をかすかにあげさせたが、対して眉尻は少しだけさがらせた。青葉がこの表情を頻繁にするようになったのはいつだろう。随分昔からだったように思う。記憶を手繰り寄せられなくとも、青葉の顔を思い浮かべようとすると、どうしてもこの顔が浮かぶのだから、違いない。
 ゆるりと過去を思い出して穏やかな心持になりながら、私は青葉に今度は問いかけを零す。
「どういうところ?」
 すると青葉はそうだな、と一拍置いてから、すらすらと手短に答えてみせた。
「勝手に自己解決しちゃうところ。今もそうなんだろ。違う? なんだか考え事をしていたみたいだったから、そんなところだと思ったんだけれど」
「ふふ、どうだろう」
 笑ってごまかせば、青葉はもう何も言わない。私のその反応が図星だということが分かったのだ。さすが長年一緒に過ごしただけある。口を噤んで、でも、口角をゆるりと上げて、青葉はハンドルを切るのだった。

 窓の外の色は青紫色や緑色ではなくなって、灰色が多くなっていた。山道を抜けたのだ。きっとこの先に沈んだ青をした海がある。
「あと、どのくらいで海に着くかな?」
 聞いてみると、青葉はフロントガラスからようやく目を離して、腕時計をちらりと見る。かすかに睫を揺らして、またすぐにフロントガラスに視線を戻して、答えた。
「そうだな、あと十分もすれば着くと思うよ。六時くらいになるかな」
「そっか。随分遠くまで来たんだね」
「朝早くからご苦労なことだよ」
 外の風景とは相反して青葉はカラカラと笑う。まるで太陽のようだ、と、初めて青葉の笑顔に対して思った。二十七年の間、青葉と時間を共にしたのに、ここに来て初めてを味わうだなんて思ってもいなかった。きっとこの先、生き続ければまた更に青葉の新しい顔や、感情や、考えを知ることが出来るのだろう。そう思うと、海に行くことがどうしても恐ろしくなってきてしまって、胸中がざわついた。そのざわつきはじわじわと脳まで届き、さびしいという傷跡を残してざわつきだけ雨に溶けた。
「ねえ、青葉」
「ん?」
「さびしいねえ」
 私がぽつり、と傷跡を落とせば、青葉は驚きましたとでも言うように、こちらを一瞥した。しかしすぐに目線をフロントガラスの先の景色に戻し、一つ頷いて、私に言葉を返してくれる。
「そうだね、さびしい」
「私、青葉がいればどこにいたってさびしくはないと思っていたよ」
「そりゃ、どうも」
 言って、さびしいだなんてこれっぽっちも思っていないように青葉が快活に笑う。青葉はいつからこんな笑い方をするようになったのだろうか。いつから、いつから、と記憶の糸を辿っていっても、どんな引き出しをひっくり返してみても、見つからなくて、また一つ新しい青葉を見つけてしまったのだとようやく気付いた。
 どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。どうして青葉の新しい顔を見つけることになってしまったのだろう。そしてどうして、それに胸を痛ませなければならないのだろう。原因を探るために始まりがどこからだったのか考え、すぐに思い浮かんだのは三日前の事柄だった。青葉の燻った気持ちがとうとう火を出してしてしまったのが三日前だったのだ。
 日曜日、海に行かない? 青葉がよく沈むソファに身を任せ、面白くもないバラエティ番組を見ながら言った。青葉と同じようにソファに身を任せて、テレビに目をやるのも飽き、うつらうつらとしていた私が日曜日、と呟くと、青葉はそう、日曜日と頷く。
「たしか、日曜は天気予報では雨だったと思うよ。季節も季節だし、どうかな」
「別に、雨だって構わないよ。季節も関係ない」
「風邪引いちゃうかも」
「風邪も引かない」
「どうしてそんなこと言い切れるの」
「死のうと思う」
 死のうと思う、その言葉だけが綺麗に私の鼓膜を揺らした。面白くない芸人の声も、窓を撫でる雨の音も、自分の呼吸音でさえも、その場の全てが空気を読んだように静かに息絶えたようだった。
 その時になってようやく私は青葉の顔を見た。青葉は、どこか遠いところを見ていた。テレビでも、窓の先でもない。もっと遠い、海か、黄泉の国か、私には想像もつかない場所だ。青葉はこちらをちらりとも見てくれなかったが、何故私の目を見てくれないのだなんて、不満や疑問は抱けなかった。
 きっと、彼は私の顔を見たらその気を崩してしまうのだろうと、そう思ったのだ。そしてそれを彼は恐れているのだとも私は気持ちを汲んで、私は静かに、静かに、その場の空気を読んで頷いて、青葉の鼓膜だけ揺らすようにいいね、と零した。
その途端、私の胸は痛くなった。彼の気持ちをこんなにも上手に汲むことが出来たのは、私たちが恋人同士だからなどという甘い理由ではない。双子だからなのだ。私たちは他人同士ではない。他人同士の恋人であったら、こんな気持ちで青葉の気持ちを理解することなんて出来なかっただろう。それよりも、まず、青葉も死のうと思うだなんて言葉すら、私に投げて寄越さなかっただろう。
 始まりは、私たちが母の胎内で息衝き始めてからだったのだ。
 冷たさの根源は、母の胎内の生暖かな羊水だと、ずっと昔から分かっていた。羊水が冷め切って私たちの身体を未だに包み込んでいる。息苦しいのだと少しでも足掻けば、母から咎められると知っている私たちは足掻かずに、ただお互いの手を静かに握るだけだった。だから冷たいのだ。だから私たちはお互いを見誤るのだ。私はこの男のことを本当は知らない。知ったかぶっているだけだ。この男が、生徒たちに優しいと評判されるのは何故だろうと、少しだけ考えて、すぐに悲しくなったのは、その日の夜のことだった。
 その時のことを思い出して、また私は少し悲しい気分に浸る。
「さ、着いたよ」
 しかし、青葉はいつもそんな私をすくってくれるのだ。悲しみに沈ませるのも、悲しみからすくってくれるのも、青葉だ。そのことに嬉しいとも腹立たしいとも感じないが、ただ、それが当たり前なのだと思った。

 車を降りて地面に足を着けるとにちゃりと地面が嫌な音を立てた。地面をぬらす雨はもうやんでいたが、先ほどまで降っていた雨の水分を地面はまだ吸いきれずにいるらしい。にちゃり、青葉も音を鳴らしてから、車のドアを閉めた。それに倣って私もドアを少し大きめな音を鳴らして閉めると、青葉が柔らかく笑い、「行こうか」と言って歩き出す。青葉は車に鍵をかけなかったが、私はそれを咎めなかった。
 湿った嫌な音はそう長く続きはしなかった。崖の直ぐ近くに車を止めたのだ。切り立った崖のぎりぎりのところまで歩いて行くと、青葉も私も立ち止まって崖の下を覗き込む。
「案外怖くないものだね」
 私は青葉の言葉に素直に「そうだね」とだけ返すと、崖の下から周りへ、視線を巡らせて見た。まず初めに目に付いたのはあの、脳内を乱す青紫で、こんな場所にまで来て考えを乱されるなんて、と思ったが、不快な気持ちにはならなかった。
「紫陽花、綺麗に咲いているよね」
 いつの間にか顔を上げていたらしい青葉が私と同じようにして紫陽花に目をつける。青葉の零した感想が自分と同じだと知るとなんだか悲しくなって、無性に声を上げて泣きたくなった。
「青葉」
 何気なく声を出したつもりだったが、その声は思っていたよりもか細く出て、青葉に浅はかに助けを求めているようで、また泣きたくなる。もう喋らないほうが良いかもしれないと思ったが、青葉は私のか細い声を拾ってしまったようで、優しい声で「ん?」と私が言葉を紡ぐのを促してくるのだから、黙っているわけにはいかない。必死に頭の中を走り回って今の状況に合っている言葉と話題を探しても、今までのことが思い出されるだけだった。
「男女の双子は心中した男女の生まれ変わりだなんていわれているけれど、私たちは前世どうだったんだろうね」
 言ってからすぐに、その言葉を青葉に放ったことを後悔した。
 すぐになんでもない、そう言おうとした瞬間、青葉が先に口を開いてしまった。
「……俺たちがこれからするみたいに、心中したのかもしれないね」
 いつものあの笑みを浮かべながらも青葉の雰囲気は確実に変わっていた。心底困りきっているような、悲しみを感じているような。それを感じ取ってしまった私は青葉の言葉に相槌も、同意もすることすら出来ず、少しだけ泣いた。

 私が泣き止んで少しした後、私たちはまた崖の下を覗き込んでいた。波の揺れは私たちを歓迎しているようにざわめいていたが、崖にぶつかっては砕けて消えていた。しかし、その様子を見ても、私の目にはもう、薄い膜は張らなかった。
「飛び込んじゃおうか」
 私に再確認するように、青葉が私の目を見つめる。青葉の目は、覚悟を決めているらしいことがすぐに分かった。揺らぐことが一切なかったのだ。そんな青葉の気持ちに応えるように、私は穏やかな気持ちでただ一つ頷いて「いいね」とだけ言葉を零した。
 手を繋いで、甘い言葉を囁きあうなんて事はしなかった。「また来世」なんてしょっぱい言葉を吐くこともなかった。ただ、急ぐように 青葉が半歩先に海へ飛び込んで、私も引かれるように飛び込んだ。それから先は、走馬灯のように、青紫色の残像が私の脳内を埋め尽くす。飛び込む前に、隅に咲いていた紫陽花を見なければ良かったと、後悔してももう遅い。思考はまとまることを知らず、ばらばらになって溢れ出てきた。
 紫陽花の学名がハイドランジアということを教えてくれたのは、青葉で、ハイドランジアの意味が水の器だというのは私が調べて知ったことだった。そして二人で学名まで綺麗だと呟いたのを覚えている。
「先生」
 私をそう呼んで呼び止めたのは私が受け持つクラスにいた女の子だった。私が「なあに」と聞いて話を促せば、彼女の友人が彼女の双子の兄のことを好きになって、応援してほしいと言われているが、乗り気ではないと言う。どうしたら良いのか、ということだった。
「どうして、応援することができないの?」
 私が一つ疑問に思ったことを聞けば、彼女は青葉のような笑顔をして、「兄は馬鹿で、かっこよくもなくて、友達にはもったいないですから」と言っていた。その時、私は私と青葉の異質さに気付いた。普通はそうなのだ。私と青葉だったら彼女と違う答えを零すだろう。
 来世、私たちは何になるのだろう。また、双子として生を受けるにしても、人間になるとは限らないのだ。人間以外だったら、私たちは恋人として結ばれることが許されるのか。周りの環境はそれを許してくれるのか。紫陽花になったら、私たちは、どうなるのだろう。
 死ぬ間際まで、こうして考えてしまうのは、きっと私たちがいっぱいいっぱいだったからだろう。お互いがお互いを含みすぎて、致死量にまで至ってしまったのだ。ならば来世は距離を置けば良いのかと思う。いや、無理だ。それはきっと無理だろう。
 ある女性のお腹から一緒に生まれた二人が、お互いに興味を持ち、惹かれあうのは仕方のないことだと、私は私と青葉を庇う。それは神秘的な美しさを持つのだと、私は私と青葉の清浄を願う。けれど、きっと世界は私たちの清浄さを許してはくれない。
 涙が宙に浮くと同時に水飛沫があがった。

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