クラゲの話
皆様はクラゲがどうして今の姿になったのかご存知でしょうか。進化のため、だとか、その姿でいるのが適しているため、だとか、そんな現実的なことではございません。これにはちょっとしたお話があるのでございます。それを今日、皆々様にお話させて頂きたく思います。
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クラゲは昔、昔、骨“あり”でございました。
今では想像することもできないでしょうけれど、その姿はなんとも逞しく、凛々しく、また性格の方も生真面目で堅実で誠実。そんな風でありましたから海の仲間たちからも好かれ、信頼されておりました。
「クラゲさん、今日はコイツのところで酒を飲もうよ」
「いいや、私は酒を飲まないから」
「クラゲさん、今夜お暇かしら」
「いいや、仕事があるから」
ただこういう風にして、あまりにも堅物なもので、海で一番美しい女性にも見向きする様子もなく、毎日をただ淡々と過ごしておりました。
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ある日の話でございます。クラゲが夜に寝惚けて、住処よりももっともっと上の方へ浮かんできました。そのことに目が覚め、気付きましたクラゲはすぐさま住処の方へと戻ろうとしました。ですが、もう一つ、クラゲはあることに気付きました。なんだか、空の方が薄ぼんやりと明るいのです。今は夜のはずだよな、と思いながらクラゲは警戒心とほんのちょっとの好奇心を持って水面に浮かびました。そうして、ゆっくりと空の方を見上げますと、クラゲは息を呑みました。
そこには、真ん丸のお月様が柔らかく、美しく輝いていたのです。
クラゲはお月様のことを話でしか聞いたことがありませんでした。美しいだとか、素晴らしいだとか、聞いたことはあったのですが、ここまで美しいだなんて思ってもいなかったのです。
クラゲは見事に心を打たれました。その美しさには勿論、こんなにも暗い夜を、海を、優しく柔らかく照らすその姿に、得も言えぬような心持になったのです。
それから毎日、クラゲは夜になるとお月様を見に行きました。プカリと浮かんで、ただただ、満ち欠けするお月様を見ているのでした。
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とある日になると、クラゲは我慢が出来なくなって、とうとう、お月様に向かって話しかけました。
「お月様、お月様、わたくし、クラゲと申します。毎夜毎夜、お月様のことを見つめ続けて、朝、昼になればお月様のこと以外を考えられないくらいに、お月様のことが大好きな、クラゲです。あのう、お月様、わたくしはずっと考えていたことがあるのです。わたくし、お月様に名前を呼んで頂きたいのです。たったそれだけで良いのです。たったそれだけで……お月様、わたくしの名前はクラゲと言います。クラゲです。どうか一度だけ、名前を呼んで頂けないでしょうか」
クラゲはそう言い切ると、お月様が口を開いて、クラゲの名前を呼んでくれるのを待ちました。けれども、お月様は口をちっとも開いてくれません。当たり前のことでした。お月様はずうっとずっと、遠くの方にいるのですから、クラゲの声なんて聞こえるはずがないのです。
ですが、そんなことをクラゲが知っているはずもありません。口を開いてくれないお月様に、お月様は自分のことが嫌いなのかもしれない。こんなにもちっぽけな私が声をかけるのではなかった。クラゲはそう考え、胸が張り裂けてしまいそうなくらい、悲しい想いになって、暗い暗い、海の底の方へと潜っていってしまいました。
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「クラゲさん、最近やけに落ち込んでいるようだが、どうかしたのかい」
クラゲがお月様に話しかけたあの日から三日ほど経った日のことでした。一匹の魚が暗い顔をするクラゲに尋ねました。クラゲは晴れそうにもない暗い顔のまま、「お月様に話しかけたのだが、お答えを頂くことができなった。やはり私のようなちっぽけな生き物が話しかけるべきではなかったのだろうか」と、零すと、魚は驚いた顔をちょっとしてから、声をあげて笑い出しました。こちらは笑い事ではないと思っているのに、とクラゲが魚を弱々しく睨みつけると、魚ははっとして謝りながら、クラゲを救うような気持ちで言葉を紡ぎだしました。
「クラゲさんは知らなかったのかもしれないが、お月様っていうのは、ずうっとずっと、遠くにいるんだぜ。俺たちの声なんか、囁き声にもならないさ。お答えを頂けないのは仕方のないことさ」
元気を出すんだな、と付け加えるように言った魚にクラゲは目を点にさせました。あんなに近くにあるように見えるのに、あんなに明るく照らしているのに、そんなに遠くにいるのか。思わぬ情報を得たクラゲは「ありがとう」と魚に礼を言って、暗い暗い海の底の方から、月の光の届くところへとまた戻っていって、少しずつ元気になっていきました。
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それからクラゲはまた毎夜毎夜、お月様を見に行って、プカリプカリと水面に浮かんでいました。クラゲはお月様のことを諦めきれずにいたのです。声は届かずとも、己の姿はお月様から見えずとも、こうして眺めることは罪ではないはずだ、と思ったのです。そして、気まぐれに昼に空を眺めた時に、明るいうちからでもお月様が見えると知ったクラゲは、朝、昼でも、水面に浮かぶことが多くなりました。そのような毎日が続いておりましたから、海の仲間たちは口々にして言うようになりました。
「クラゲさんはお月様に骨抜きにされちまったなあ」
そういうわけで、クラゲはお月様に骨抜きにされ、ふにゃふにゃに、また、お月様への憧れもあって、まるでお月様のような姿になってしまったのでございます。
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以上のことが今のクラゲの姿になった理由でございます。
海の月と書いてクラゲと読む、彼のお話はこれにておしまいでございます。
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