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生存戦略としての人財育成とは①

何気なく「人財育成」という言葉を使っているが、これはいったいなんなのか。学術的に調べればいろいろたぶん意味はあるんだろうけど、今回はそんなことはせずに、今の自分の知識で紐解いていきたい。タイトルは①にしているけれど、②もあるかも。ということで。

まずは、「人財育成」というのは、「教育訓練」と「人財開発」に分けられる(と思っている)。英語で言ったほうがわかりやすいかもしれないので書いておくと、”Training&Development”と”Talent Development”の違い。ASTDからATDの流れを組むと理解しやすい。

要は、昨今(といっていいほど最近の出来事ではないが)トレーニング型から開発型への転換が行われている。今日明日から使える知識やスキル習得型のトレーニングから、自分の未知の力、本来の力を開花させるやり方へと人財育成のトレンドは変化している。

ところが、この変化がうまく企業の人財育成の取り組みに生かされていない。さらに、これが非常に難しい。人事担当者の中でもこの辺を理解していない人が多いし、理解をしていたとしても、現場の中へこの考えを浸透させることがなかなか難しい。単純に労力を掛ければできることでもなく、それこそ「伝え方」や「持っていき方」みたいなストーリーを描けないとこけてしまう。

特に、「研修」に代表されるようなOff-JT型の教育の機会は、無にされがち。それは現場の人たちの過去の経験から「面白くてつまらないものだ」というイメージがあるから。もちろん、「研修」自体がクリティカルなものなんてそんなにないと思う。それこそ、これもストーリーで本人と周囲が研修に望む準備とあとのフォローがないと、ただのアリバイにすぎないだろう。

まあ、このアリバイという役割もそれなりに重要だとは思うのだけれど。

とにかく、現場はそんな机上の空論を学ぶよりも、「とにかく長時間現場の最前線でいろいろ経験して学べ!」「成長のためにはそれしかない!」という価値観から抜け出せずにいる。ある種では正しいとは思う。

なにかの記事で読んだことを思い出しながら。高校野球を例に昨今の人財育成を重ねてみる。

いわゆる強豪校には、これまたいわゆる昭和型の練習をしている学校が多い。イメージ的には、がちがちの軍隊式(とか言ったら怒られそうだけど)。全員坊主で、監督、先輩の指示は絶対。返事は大声で。だらだらと動かない。携帯は没収。遊び、食事も制限有。こういう練習というか生活をしているとそれなりに強くはなる。これはほぼ間違いなく強くなる。金太郎あめ方式。大量生産大量消費型の人財育成はまさにこれ。厄介なのは、これをすれば確実にそれなりには強くなる。インプット=アウトプット型。大きな物語がそこには存在し、「こうやればこうなる」「努力は決して裏切らない」といったストーリーを信じて疑わない。そういう意味ではこれは勝つためには楽な方法なのかもしれない。

ただし、このやり方以外にも強くなる方法はある。最近は社会がそれに気づき始めた。ごく一部だけど、いろんなやり方を試しながら、新しい指導で勝つチームもある。これにはもちろんリスクはあって、何が正解かわからないから、うまくいかない場合ももちろんあるということ。軍隊式はある程度は強くなることが約束されているので、この心配はない。

この部分がなかなかうまく上述した変化が企業でもうまく浸透しない理由だと思う。本当に難しい問題だと思う。人事系の記事や書籍などで、こういうやり方でうまくいきました!とうたっている企業も裏には絶対に軋轢のようなものがあったはずだし、同じくらいかそれ以上にうまくいっていない企業もあるはず。うまくいった事例はメディアにでるけど、逆の事例はメディアにはなかなかでないので。

今の自分の職場のチームの状態(”の”ばっかり)について、うまくいっているところやうまくいっていないところを考えていた時に、ある言葉に出会ったのと、ある言葉を思い出したのとで、自分の「人財育成」に関する一つの指針のようなものを発見、というか再認識したので、記しておきたい。

まずは、イチローの去年の言葉。

「教えてくれる人たち、先生たちは、なかなか(厳しく言うのが)難しいらしい。先生よりも生徒の方が力加減でいうと強くなってしまっているような状況があるみたい。このことを僕は今、心配している。『どうやって教育するんだろう』とよく考えることがあります」
「みんな小学生だけど、高校、大学、社会人になる前に経験する時間、そこで自分自身を自分で切り開いてほしいと思います。厳しく教えるのが難しい時代、自分で自分のことを教育しないといけない時代に入ってきた。自分は小、中、高となかなかそうは思えなかった。自分には厳しい先生がいた。今を生きているみんなには、それが大切なことと覚えておいていってほしい」

これは教育現場のことを例に挙げていっているけれど、社会、とりわけ、企業においては同じようなことが言える。○○ハラスメントという言葉が独り歩きし、世論が大好きなレッテル張りとメディアの誤った大号令によって、まさに職場のマネジメントの難易度は複雑化している。

ある時には、教えてくれない。ある時には、指導方法がきつい。無視された等々、イチロー氏が言うように、生徒側、つまりは、部下側の言い分が通ってしまうというおかしなルールというか、風土になりつつある。もちろん、本当に優秀なリーダーたちはそんなことお構いなしに自分の思ったことを貫き通すんだけど、これは案外難しいし、プレッシャーは半端ない。結果的に、関わらないほうが楽、最低限のことだけ教えたり、指示して、あとは全部自分でやる、という構図になりがち。

部下側に大切なことは、こういう仕組みになってしまっているということを十分に理解したうえで、望むのであれば、自分から上司と関わっていかなければならない。ゲームのルールはそういう風に変わってしまったんだから、それとうまく付き合っていくしかないのである。結局は自分次第。全ては自己責任である、と言いたいわけではないが、少なくとも、自分自身に対してはそう思っておいたほうが正解なのかもしれない。

それに関連して、もう一つ。化物語より。

「助ける?そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ。お嬢ちゃん」
「助けない。力は貸すけど」「助けないよ。力を貸すだけ。君が勝手に一人で助かるだけだよ、お嬢ちゃん」

特に好きなセリフってわけでもないんだけど、頭の中に残っていた。それを最近何かの折に思い出した。なんだかさっきの話を似ているところがある気がする。

結局は、やっぱり自分次第。物事の因果なんてのは、勝手に自分がでっち上げた物語にすぎないわけだし、何が事実なのか真実なのかよくわからない世の中。あらゆる感情の因果は、自分の言動の結果だと考えると、勝手に傷ついたり、勝手に救われたりしているわけだ。他人がどうこうしようが特に関係ない。そんなコントロールできないことに期待したり、がっかりしたりするのももちろん人生の中で大切なことだと思うけど、そうはいっても、結果は変わらない。自分がそのためにどうやって行動して、その結果をどのように受け止めるか。これだけの話なんだと思う。

長くいろいろと書いてきたが、大量生産大量消費型の経済モデルではなくなり、付加価値創造型の働き方、社会に変貌を遂げようとしている今こそ、人財育成のトレンドは、こうして、一人ひとりにフォーカスが当てられるし、それは何もワークだけに限ったことではなく、ライフ、それこそ生存戦略的な意味合いで、自分で生き抜く力というのが必須になってきているような気がする。ただの考え方の問題なのかもしれないけれど。

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