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10年たってもできること 釜石と心をつなぐカメラマン防災士 三浦寛行さんの言葉

2021年3月11日。きょうは東日本大震災から10年の節目を迎える日です。報道機関に勤務して30年の年月が流れる中で、さまざまな災害を見てきました。とくにこの東日本大震災や阪神大震災については、さまざまな形で取材をしたり、関連する原稿を書いたりすることもありました。岐阜支局に勤務していたころ、毎年岐阜市内の信用金庫で東日本大震災の被災地を紹介する写真展を開いている写真家がいると聞いて、取材をお願いしたのが同市在住の三浦寛行さんでした。

当時私はこんな記事を書いています。

震災発生から3カ月後、暮らしていた岐阜市で被災地に支援物資を送るなかで訪れた岩手県釜石市。そこで三浦さんは地元の釜石東中学校の正門の看板を見つけました。津波で多くのものを流されてしまった同校の生徒や教員は感激に包まれます。ここから三浦さんと被災地とのつながりが始まります。以来40回ほども被災地に通い、地元との交流や写真を通じての発信を続けてきたのです。

「メディアは3月が近づかないと被災地のことを取り上げてくれないですね」。取材の合間に三浦さんが話した言葉がずっと心に突き刺さっていました。もう一度三浦さんに話を聞いてみよう。3月に入っていましたが、私が担当しているVoicyから配信する「ヤング日経」でインタビューをお願いしました。その様子は21年3月11日夜に配信した「ヤング日経」でご紹介しています。

この数年間、三浦さんの被災地との交流はさらに深いものとなっていました。愛知県東部の新城市の出身。新城市の中学と高校の生徒は阪神大震災の復興のシンボル「はるかのひまわり」を育てました。阪神大震災で亡くなった女児の自宅跡地に咲いたヒマワリです。その種は東日本大震災の被災地にも届き、三浦さんも岩手で地元の人から7粒の種を託され、郷里の学校で栽培してもらったのです。

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学校で育てられたヒマワリは、19年のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会の会場となった釜石市の競技場に近い学校に寄贈され、翌年の歌会始で、紀子さまが「高台に 移れる校舎の きざはしに 子らの咲かせし 向日葵(ひまはり)望む」と、そのヒマワリの咲くようすを詠まれたのです。

三浦さんは自らの活動をフェイスブックで次のように配信しています。

ヤング日経の木曜パーソナリティーの大塚美幸さんがインタビュアーとなり、取材を進めました。大塚さんもまた、ある心苦しさを抱えていました。東日本大震災の直後に、2回ほど炊き出しのボランティアに行っていました。しかし、それから東北の被災地から足が遠のいていたのです。そしてこんな質問を三浦さんにします。「10年たって何ができるのかなと思ったのですが、何からしていいのでしょうか」

三浦さんは少し深呼吸して答えました。「10年たった今、もう一回東北に行こう、ということではないと思います」。そして地元の仮設住宅に住んでいた高齢者から聞いた言葉を教えてくれました。「あなたたち(の住む中部地方に)は南海トラフ地震が来るかもしれない。ちゃんと自分たちの住んでいるところで、命を落とさないように対策しないとダメだよ」。皆が東北の被災地に行かなくてもいい。自分の住む場所での防災対策の重要性を訴えたのです。

中学校の看板を見つけた時に生まれた被災地との縁。「亡くなったたくさんの方々から、代わりに伝えてくれと言われている感じがしています。やめる理由はありません」と三浦さんは語ります。この言葉を受け止めて、どのように明日への防災に結びつけていくかが、私たちに問われているのだと感じました。