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辛かったときに自分が必要とした人

早産で救急搬送され、総合病院で緊急帝王切開した経験を持つ。息子は破水から4時間後に生まれ、それから3週間NICUでお世話になった。

「妊娠は病気ではない」とは言うものの、母子共に元気で退院させるために医療従事者の並大抵ならぬ研鑽と努力があることを知った。入院生活中は看護師が寄り添ってくれたのがありがたかったし、さらには先輩ママさんから思いがけず励まされたこともあった。

夜勤のNICUナースからかけられた言葉

抱くこともできない管だらけの息子を見て、保育器の前で泣いてしまった。母が強くなくてどうする、と焦っていたら、部屋の向こうで気づいた看護師が箱ティッシュを手に「無理しないでね、泣いてもいいですよ。赤ちゃん頑張って大きくなりますよ」と声をかけてくれた。

分娩予約をしていた産院で受け入れられずに時間外に担ぎ込まれた産婦に、満床のNICUで、こんなに優しい言葉がかけられるとは思ってもみなかった。余計に泣けてきて、ティッシュを10枚くらいもらった。

産科ナースからかけられた言葉

出産当日は夜だったこともあり、個室を使わせてもらえた。産後翌日から、切迫早産で管理入院中の妊婦さんたちと相部屋になった。みんな赤ちゃんがいれば24時間赤ちゃんが泣いたり抱っこやおむつ替えなどで音を立てたりしてもお互い様だけど、妊婦さんたちは夜普通に寝ていて、私には3時間おきの搾乳があった。

電動搾乳機は授乳室にあったが、「ずっと部屋に置いておいてもいいですよ」と産科ナースが言った。搾乳機を使うお母さんは私の入院中は他にいなかったのと、術後で歩くのも大変だろうからと慮ってくれたのだ。私は歩くことは厭わなかったが、他の母子と居合わせたくなかった。こんなはずじゃなかったって、周りと比べて自分が惨めになるからだ。それで、お言葉に甘えてありがたく自室に置いて独り占めさせてもらった。日中は。

深夜の授乳室で先輩ママからかけられた言葉

カーテンの仕切りは電動音を防げない。同室の妊婦さんたちの眠りを妨げないよう、夜中は授乳室に行ってウインウインやっていたら、授乳中のママさんに「赤ちゃんは?」と話しかけられた。逃げ場がないから仕方なく答えたら、「私も上の子は早産で、NICUにいました。でも、今は大きくなって元気ですよ。きっと報われるから」と言われた。

目の前の姿がそうでないからといって自分とは無関係で無理解な人とは限らない衝撃は、その後の私の価値観に深く根を下ろした。数年前の自分と重なって思わず私に声をかけてしまったという彼女の咄嗟の勇気が、私をここまで導いた。
なお、息子はその後手術とか色々あったけれど、確かに大きく元気になった。中学生にして、既に私より大きい。

Pay forward

仕事人としてキャリアを積む中でも子育てをする中でも、自分の力が及ばないとき、周りの人の存在に助けられてきた。自分がなし得ないことを専門性やスキルで解決してくれたり、「一人ではないんだよ」と傍にいて気遣ってくれたりした。

私はその後、社会福祉士の資格を得て相談援助をする身になったが、人を救うほどの力量はない。一度クライエントから「鎌田さんには私の苦しみなんかわからないでしょう」と言われたときには、自分がお腹を痛めて産んだ子どもたちのことだって何年も一緒に暮らしていたって理解しきれないんだから、出会ったばかりの私にそこまで求めないでちょうだいよ。と思うくらいには冷静であった。

気持ちは100%汲んであげられなくても、情報を集めたり関係機関と意見交換したりすることは職務としてできる。そして、働いている間、常に心がけている言葉がある。

Be who you needed when you were going through hard times.
なるなら、辛かったときに自分が必要とした人。

この根底には、産後の私が弱っている可哀想な人としてでなく偶然この状態で出会ってしまった人として尊重してもらえたあの日々がある。私は、初めて直面する現実や込み上げてくる複雑な感情に揺れる自分を静かに受け止めてくれた人たちの存在がこの上なくありがたかった。一緒に泣いたり笑ったりするのではなく、自分の仕事を確実にこなしながらも思いやりの言葉をかけてくれた人たち。

病院の看護師や先輩ママさんも、こうしてブログに書くほどに恩人だと思っているのに、顔も名前も忘れてしまった。しかし、これまで数多の人々から受け取った気遣いや優しさは、私の中に一欠片ずつ蓄積されている。他の人が必要としていないならと仕切りの中で独り占めするのではなく、「世の中、捨てたものじゃないね」と希望を広めていけるようでありたいと思っている。

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