ロマンティックMMT−18: JGPとマルクスの視座(JGPの話5)
こんにちは。
ええと、じぶんはよく「学者は馬鹿」「経済学者は存在しないほうが世のため」と吠えているわけですが、みなさんはそんなに怖がらないでくださいね。どうか、気軽にコメントしてください。。。
と言っても信用できないですかね。。。
やっぱりちょっと怖かったりするんですかね。。。
あなたがプロでなければだいじょうぶです!なぜならバカになる訓練を受けていないから。
ダメなのは専門家だけですから。
これはきわめて真面目な話です。
今回はそのへんの話を。
「上から目線」が必ず人間性を見失うメカニズム
イメージでやってみます。
これは第16回、大西つねきさんとイデオロギーで使った「上から目線」のイメージ図。
議論する人の目線が変わらないのなら、その人たちがいくら真面目に考えてようとしても「緑の線をどのへんに引くか、あるいは引かないか」という話にしかなりません。
けれども目線を下からにするとピンクの線が見えるという話をしました。
こうですね。
視座を変えると「浮き上がる」それぞれの事情
視座を変えて見えてくるのは「特にひどい目にあっている人は誰か」といった、一人一人の「それぞれに異なる」個別の事情です。
たとえば、難病の人の家族や、自閉症の人たち。入管や刑務所で虐待されている人たち。みんな、それぞれ事情があるじゃないですか。不幸の形はそれぞれ違う。そんなことは「ガキでも知っている当たり前のこと」のはずです。
そう思うと、次は腹が立ってきます。
いつまでたっても上から目線の人たちは、実は「意地でも弱い人達を見ないようする態度の人たち。意地でも。」じゃないか?とわかるからです。事実上、弱者を差別する側に回っていることに気づかない。
前回のJGPの目線とマルクスの誤解も、同じ話なんです。
再掲します。こちらが上から目線。
これ、下の方の失業者がぜんぜん救われていない。「失業者のうち、生産性が高いと見なされる人から順番に」雇用されるだけなんですよね。
レイのMMT入門の本にも、明らかに下の図の話だと「ありありと」書いてある。
だから、英語で読んでいたじぶんは「レイの本を読んだはずなのにまだ目線が上の人たち」は性格が悪い差別主義者か、読解力がない大バカかのどちらかしかないと思っていたのです。
でも結局は「翻訳する人」がわかっていなかっただけですね。そのことはこちらのエントリで書きました。島倉原さんはその理解不足によって本当に罪なことをしてくれました。ゆるせません\(^o^)/
マルクスの視座
この「下から目線」の視座の元祖はマルクスでしょう。ほんとうにマルクスこそMMTの源流なんです。
マルクスはそれまでの「上から目線の」哲学をひっくり返したのです。
図でやりませしょう。
マルクスに先行したヘーゲルという人の歴史観、人間観はこんな感じ。人間は理性によって進歩向上する!
本当にそうだろうか。
なんか違う。マルクスはそう感じたはずです。
これ実は上から目線ではないだろうか。一人一人の事情が把握できないのではないだろうか。
ほんらい、個人の個性はさまざまで、得意不得意のベクトルも様々なはず。
「それぞれに異なる別の事情がある」に決まっている。そんなことは「ガキでも知っている当たり前のこと」のはずです。
ヘーゲル的世界観はこれを見落としている...
カール・マルクスはユダヤ人の家系でしたが、ナポレオンから「解放」されたドイツで生きていくために一家はユダヤ教からプロテスタント・キリスト教に改宗していたりします。一家は社会の都合に合わせて信仰を変えたのです。
文芸創作に熱中した青年マルクスは、才能と環境がマッチせずさまざまな事情から法律の道に進むことになりました。
このような人物に次のような思考が深く埋め込まれるのは自然なことだと思うのですよね。
「人は、ほんとうにやりたいことをやっているわけではない」
「人は社会システムの「型」を身につけなければ生きていくことができない」
図にすると、こう。人間がいろいろな能力が発揮できずに社会の型にはまってしまうイメージのつもりですが、どうでしょうね。
人間は、自己を社会に適応させるときに「別の可能性」を捨てているのです。マルクスの有名な「疎外労働」という概念は、この認識から来ています。
工場の労働者たちが疎外労働をしているということは「ガキでも知っている当たり前のこと」。これは「証明」する必要はない事実、絶対法則。
だから、歴史の発展はヘーゲル的な感じではなくて、実際はこんな感じになっているのではないか。マルクスはそう考えたわけですね。
どうですか?
ヘーゲルの言うことももっともだけれども、マルクスに指摘されると実際の社会はやっぱりこっちじゃないですかね?
人は、人間にとって「本来は必要ではない」時代の「様式」のせいで、それぞれの可能性が制約されていたのです。
その「様式」はしばしば無意識的なものです。
無意識の「様式」に規定される認識
マルクスの把握がすごいのはここからです。
人間の意識が無意識に規定されているならば、無意識の差別構造、搾取構造は拡大「再生産」されることを見抜いたこと。
それより何より「神の座」にあるのが「資本という概念」だということを見抜いたことだと思うんですよね。
「無意識の上から目線」ができるのです。
私たちは油断すると「上から目線」というイデオロギーに支配されています。島倉原さんのような聡明な頭の良い人であっても、高学歴だったりお金に困ったことがない人って、無意識のイデオロギーからなかなか脱却できない。
「マルクス学者」でさえそうなるんです。松尾匡さんはその極北だと思います(松尾さんについては、またいずれ)。
だから島倉さんを叩いてもあまり生産的ではない。本人が気づくしかないんですよね。
さて、ここでMMTのJGPの図を再掲します。すぐ上の「無意識の資本主義」の図と比べてみてください。
お分かりになるでしょうか。
JGPという思想とは、マルクスが発見した「様式に合わない疎外」で苦しい人たちも、「疎外労働」で苦しい人たちも、みんな開放されることができるのではありませんか?という提案なんですね。
人間疎外が「ある」という事実。
そんなことは「学者」にわざわざ教わるまでもなく、みんな知っていることではありませんか?
学校で教わることと自分がやりたいことってぜんぜん別のことですよね。「学校に行く」とか「やりたくない課題をやらされる」ことは、ほんとうにやりたいことではないですよね。それは「疎外がある」ということ。
たとえば重度障碍者の家族の人のほとんどは「じぶんがやりたい仕事」なんてやっていません。できるわけがないじゃないですか。
そんなこと、「ガキでも知っている当たり前のこと」のはずです。疎外労働や剰余価値の存在を、文献や数式で「証明」しようとする学者の方が間違っているんですね。むしろそんなことをすることによって、わたしたちの現実や、社会的な関係や、歴史というものを切り落とそうとする行為です。
マルクスはそういう学者の態度こそをダメだと言っている。ありありと書かれているのに学者がいちばん読めていない。これはもう社会悪としか言いようがないのですね。
マルクス自身の疎外を想像せよ
じぶんは上でこう書きました。
カール・マルクスはユダヤ人の家系でしたが、ナポレオンから「解放」されたドイツで生きていくために一家はユダヤ教からプロテスタント・キリスト教に改宗していたりします。一家は社会の都合に合わせて信仰を変えたのです。
ほんとうは。
これも良い書き方ではないのですね。おそらくこの国の歴史上でいちばん資本論を「読めている」臼井隆一郎先生はこう書きます。
モルデカイの末裔が世界に離散したのであろう。ヨーロッパの古来の中心とも言えるトリーアにも、ボヘミア地方からモルドシャイ Mordochai というラビの家系が移り住んだのが 18 世紀中頃。代々、ラビ職を継ぐのは長男で、19 世紀初頭、長男ではないために弁護士となったヘンシェル・モルドシャイは当時のユダヤ人のドイツ人同化の趨勢に応じて、プロテスタント・キリスト教に改宗した。1817 年頃と推定される。その後、1824 年、当時 6 歳だった息子のシャルル・モルドシャイ Charles Mordochaiもプロテスタントの洗礼を受け、ドイツ語の固有名を与えられることになる。
Karl Marx。
このように歴史を記述することで初めて見えることがあるのがわかるでしょうか。それどころか、このように書かないとマルクスの個別性が失われてしまいます。
「聖職者一家が生活のために改宗する」
これは転倒です。疎外労働が存在するとか、剰余価値がどうのこうのとか。そんなことは六歳の「ガキでも知っている当たり前のこと」。
MMTやJGPがなかなか理解されないのも、マルクスも資本論もぜんぜん理解されないのも、みんな同じ話なんですよ。
マルクス「専門家」になればなるほどダメになっていくのです。そうした話も、またいずれ。
つづく
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