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第20回「大いさ」と verhalten についても少し

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第20回。 

 最近このシリーズで資本論に登場する「大いさ(Größe)」概念について二回にわたって語りましたが、補足的に今回もう少しだけ。

 ネット検索で「資本論 大いさ」検索すると、それは誤訳であるとか(ここ)、「ヘーゲル論理学で、単なる量ではなく質的な規定をともなった量を表わすGrößeの訳語として発明された日本語である」とか(ここ)、いい加減なことを言う人たちが上位に来るので、消毒もかねてというか\(^o^)/

 今回は気楽にどうぞ。


Größe(大いさ)の図

 一つにはGröße(大いさ)の図を作ったので\(^o^)/ 
「マルクスが  Größe で表現したいことはこういう感じ!」の図。

「大いさ」とは?

  ヘーゲルとなると、厳密にいえば「より大」「より小」とは区別する必要はなくて、「より小(Minder)というのは逆方向の Mehr であり、 「Mehr か Minder」 の前に、Mehr が先にあるよね、というような議論をしていて、言われてみれば確かにそうです。

戦前の随筆「雨粒」の話

 さて、話は変わりまして、先日ワタクシ「大いさ」と「大きさ」をナチュラルに使い分けた事例ってあるのかな?と思って調べていた際、青空文庫に出くわしたのが石原純(1881 - 1947)の「雨粒」という随筆でした。

 「大いさ」が七回、「大きさ」が一回で使われているのですが、文脈を見れば全部「大いさ」でよかったと思われ、どうでもよかったのだろうと思います(笑

 ただ、この時代のこのような「科学的」な文脈で「大いさ」は使われていたのですよーという例にはなっているでしょう。

 石原はアインシュタイン来日時に通訳をした理論物理学者であり、文人でもあった人。

 こちらです。

 ここに出てくる「吸取紙を使って雨粒の大いさ測る」話がワタクシにはちょっと面白かった。

 これって、やっぱ前回ご説明した A verhält sich zu B, wie C zu D (AはBに対して、CがDに対するのと同じふるまいをする)まんまだよなあと思ったというわけ。

そこで雨粒の大いさを測るのにはどうしたらよいか。気象学では、そのためにちょっとおもしろい方法をつかっている。それは雨粒の落ちるのを吸取紙で受けて、紙の上に滲にじみ拡がる面積を測るのである。それから別に半径のわかっている水粒を同質の吸取紙に滲ませてその面積を雨の場合と比較すれば、これから雨粒の大いさを知ることができようと云うのである。
 

 ここで、「雨粒たち」は吸取紙に対して、「別に半径のわかっている水粒たち」が吸取紙に対するのと、同じふるまいをするという認識が、当然のこととして通用している。

 石原はもっと新しい測定法も紹介します。

雨粒の大いさを吸取紙で調べるなどは、謂いわば昔風な観測法である。もっと近代的な方法としては、雨粒の落ちているのを瞬間的に写真にとればよい、そうすれば大いさもわかるし、形などもはっきりする。普通に人間の眼がぼんやりと見過ごしているのを写真はもっと鋭敏に印してくれる。つまり何事に対しても、表面的な感覚的観察に終らせることなしに、もっと科学的な方法をそこに利用することが必要なのではないか。雨をただ直線的に降るものと呑気に見ているだけではいけない。何かしら大事なことだと察したなら、それを出来るだけ科学的に突きつめる近代的な方法を講ずることが大切なのである。この頃のはやり言葉で云えば、認識というのであろうが、写真のレンズが歪んでいると、とんだまちがった認識を結果しないとも限らないから、それも十分に注意しなくてはならない。

 瞬間的に写真をとればよいというわけですが、実のところ、雨粒の痕跡を紙に写し取るにせよ、写真のフィルム(印画紙かな)に写し取るにせよ、原理は同じことですね。このように、科学では多くのところで A verhält sich zu B, wie C zu D というわれわれの認識パターンが重要な役割を果たしていますね\(^o^)/ということで。

 「認識」と言えば、ここも時代を感じさせてくれます。

 この頃のはやり言葉で云えば、認識というのであろうが、写真のレンズが歪んでいると、とんだまちがった認識を結果しないとも限らないから…

 1939年かあ。。。

「死に至る病」の verhalten と訳註の話


 また話変わりまして、キルケゴールです。

 sich verhalten を扱った前回(第19回)、一瞬だけ触れた哲学者キルケゴールの代表作、「死に至る病」のドイツ語訳の冒頭を見に行ったのです。

verhalten 関係の単語が大量に出てきます。意味はわからなくてもご一緒に味わいましょう。桝田の、原語(デンマーク語)からの日本語訳(ちくま学芸文庫)も付けておきます。

 キルケゴールがこのような問題意識を持った(問いの立て方をした)のがヘーゲルのせいなのは間違いないところでしょうね。

Der Mensch ist Geist. Was ist Geist? Geist ist das Selbst. Was ist das Selbst? Das Selbst ist ein Verhältnis das sich zu sich selbst verhält; oder ist das im Verhältnis, daß das Verhältnis sich zu sich selbst verhält; also nicht das Verhältnis, sondern daß das Verhältnis sich zu sich selbst verhält.
Ein Verhältnis das sich zu sich selbst verhält, ein Selbst, muß sich entweder selbst gesezt haben oder durch ein anderes geseßt sein.

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

 
 日本語への訳者の桝田は、ここに長大な訳注を入れています。

 最後、その一部を抜粋しておきます。verhalten って奥深いなあということを感じていただければ。

 この個所は中心的な意義をもつきわめて重要なところであるにもかかわらず、訳者や研究者たちは、たいてい明確な解釈を加える曖昧なままに残している。この書全体がその説明であると言ってしまえば、確かにそのとおりで、それまでのことであるが、しかしやはりなんらかの説明を加えておくべきであろう。訳者一個の解釈にすぎないが、参考までに私見を述べておこう。
(中略)
 右の文章の最初のところは、これまでたいてい「自己とは自己自身に関係する(かかわる)〔ところの〕(一つの)関係である」というふうに訳されてきた。この訳文では、「自己自身」の自己は、主語の「自己」を指すとしか受けとれないが、原文では、関係文の主語をなす関係代名詞の再帰代名詞であって、主文章の述語の「関係」を受ける関係代名詞、つまり「関係」を指していることは疑いなく、したがって「自己自身」は「関係自身」でなければならない。「自己自身」の訳語で関係自身の意味をあらわそうとするのは、少なくとも日本語としてはなはだ曖味であると言わねばならないし、また、 「自己」は「関係」なのであるから、「関係自身」のかわりに「自己自身」としても同じことであるというのなら、そこには明らかに論理の飛躍がある。なぜなら、自己は、関係自身に関係する関係において、それを介して、というよりむしろ、それに即して、自己自身に関係するのだからである。そればかりでなく、両者を同じと考えるのなら、ここで「自己」と言われ「関係」と言われている事柄のものがよく理解されていないことになる。
(中略)
ここで著者の言おうとしていることは、「関係がそれ自身に関係するということ、そのこと」、言いかえると、「関係がそれ自身に関係するという、その動き、あるいは、はたらきそのもの」ということであろう。おそらくそう解して誤りあるまい。 それだから次につづいて、「自己とは関係そのものではなくて、関係がそれ自身に関係するということなのである」と言われる。すなわち、互いに関係する二つの関係項のあいだに成り立つ一定し固定した関係そのものではなく、その関係項の相互関係の仕方のそれ自身に対する関係の仕方に応じて関係そのものにいろいろな不均衡な状態が生じうるような、動的なはたらきとしての関係、これが「自己」であると言われているのである。ここですでに「自己」のあり方が一つでないことが示されている。
 (中略)
 しかもこの関係は、客観的に成立するそれではなく、どこまでも主体的なものと考えられねばならない。つまり、人間の心の状態、というよりもむしろ、「態度」ないし「行為」なのである。このことを明らかにするために、 「関係する」と訳した原語 forholde sig (sich verhalten) の語義をまずもっとも権威のあるデンマーク語辞典 Ordbog over det Danske Sprog. Udgivet af Det Danske Sprog-og Litteraturselskab. Kjøbenhavn 1918-56. に ついて検討してみよう。もともと Forhold 「関係」というデンマーク語の名詞は、ドイツ語の verhalten という動詞に従って作られた forholde の動詞的名詞で、はじめは「何かが逃げないように力ずくでしっかりとつかまえておく」という意味であったが、一七〇〇年頃から、ドイツ語から借用されるか、あるいはドイツ語の影響を受けるかして、ドイツ語の Verhältnis と同じような意味で用いられるにいたった語である。そのもとの動詞 forholde は、こんにちでは、ドイツ語と同じくもっぱら再帰動詞として用いられ、第一には、まず「或る身構え、姿勢、態度をとる」ことを意味し、つぎにそこから「......のやり方をする、......にふるまう、・・・の行動をとるの態度で対処する」というような広い意味に用いられ、第二に、多くの場合非人称主語とともに、「物事が・・・の事情 (状態)にある」の意に、第三に、「......に対して或る関係に立つ」、特に「誰かが誰かと知り合いになる」「誰かに対して依存関係に立つ」の意に、第四に、「何かが何かと対応している、比例している」の意に用られるにいたった。そして名詞 Forhold は最初の意味においてよりも、むしろ右のような動詞 forholdeの第一の意味、すなわち場合場合における「態度、行動、挙動」の意に、特に、比較的持続的な「人間の全人格的な行動ないし態度」の意味に用いられるのが普通となっている。 (ドイツ語では verhaltenの動詞から Verhalten 「態度」 と Verhältnis 「関係」との二つの名詞が出来ているが、デンマーク語では Forhold 一語がその両義をもち、しかも「態度」の意味を第一義としているわけである。) したがって、 Forholdを 「関係」と訳すのは、一面的であって適切ではないが、別に適当な訳語も考えつかないので、慣用に従っておく。そこで右に述べたような本来の語義を絶えず念頭において、「関係する」と訳したことばの意味を考え直してみよう。
 ここでいう「態度をとる」という意味の「関係する」ことは、一種の運動概念であるが、しかし、もちろん外的な出来事ないし行為ではない。それは「内面的に行為する」こと、いわゆる「内面性」の事柄である。普通のことばでわかりやすく言えば、それはまず「意識すること」、この場合に即していっそう適切に言えば「自己意識すること」である。あるいはまた「自己自身を反省すること」である。しかしここでいう「自己意識」 Selvbevidsthed あるいは「反省」は、いわゆる「観想」 Contemplation や「冥想」ないし「省察」 Meditation ではなく、あくまでも具体的「行為」であり「態度」なのである。「この自己意識は観想ではない。そう思っている人は自分自身を理解していないのである。その人は、自分自身が同時に生成のなかにあり、したがって完結しまとまって観想の対象となるようなものではありえないことを知らないのだからである。この自己意識は、それゆえに、行為である。 そしてこの行為がまた内面性なのである」 (IV 453)。そこで「関係がそれ自身に関係する」ということは、「関係がみずからを意識もしくは反省する」こと、さらに「関係がみずからに対して一定の態度をとり、内面的な意味でみずからに対して一定の行動をとる」ということで、人間の「意志」にかかわることであり、ことばをかえて言えば、意志による選択であり、さらには「決意」もしくは「決断」である。
(後略)

 有名な「主人と奴隷の弁証法」のように、ヘーゲルは物を媒介にした人の諸関係を描きましたが、これに対し、資本論でマルクスがやったことは、とりあえず人間の問題を徹底的に脇に置いて、人(売り手になり買い手になる)を媒介にした商品の諸関係、つまり商品世界を描き出すことでした。

 人の諸関係はそれによってむしろ鮮やかに解剖される。キルケゴール的問題も、マルクスの分析とまったく無縁ではなく、むしろ共通している。

 見事なものです\(^o^)/


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