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ロマンティックMMT−1:言語文化の障壁

 どうでしょう、この「人びとのためのMMT 第0部 ロマンティックMMT」というマガジン名。

 本人は、なかなかいいな...と思っています。でもそれはおそらく、いや、ほとんど間違いなく皆さんがこの言葉から感じることとは別の意味においてです。

 ロマンティックの意味はしばし置いておいて、まずは言語の意味のズレそのものの話をいたします。

 あなたはたぶんMMTのことを謎なところが多い妙な理論だと思っているのでは? たとえば望月さんの「図解入門ビジネス 最新 MMT[現代貨幣理論]がよくわかる本」なんかはすでに読破されたかもしれません。

 それでもなお、独特のわかりにくさは多分残っている。

?「貨幣発行は無限」と言いながらインフレ目標や経済成長に乗り気でないのはなぜ?

?経済学ぽいことを言うのに、あそこまで経済学を批判するのなぜ?

?あそこまで職業保証制度に拘るのにベーシックインカムを批判するのはなぜ?

?マルクスが起源と言うのに、マルクス経済学ぽく見えないのはなぜ?

 あと、もしかしたらこんな感想も。。。

?MMTerは上から目線が多い?

 なんでだよー\(^o^)/ 

 さて、この文章を書いているじぶんは MMTer という事になっています。英語でMMTの文章を読んだときは、「すごい、新しい、わかるわかる\(^o^)/」という高揚感に包まれたものです。そうして簡単にこう考えていました。

「この考えが広まりさえすれば、苦しい人たちがだいぶ救われるぞ\(^o^)/」

 まあ、見通しが甘い早とちりタイプなのは認めます。

 でもそれを割り引いて考えても、いまこれだけMMTが「広まっている」のに、それなのに、あんなに面白いMMTの内容がぜんぜん広まっていないのはなぜなの? どうしてこうなるの?

 実はさっぱりわかりませんでした。

  でも、だんだんわかってきた気がしてきたのです。そして今はほぼ解明できたなと見ています。最初にじぶんが行き着いた答えは「言語と文化の問題だ」。

 三つ指摘できます。そして互いに絡み合っています。

 第一に、日本が極端なハイコンテキスト文化圏であり、英語圏が逆に極端なローコンテキスト文化圏であることです。これはMMTのように革新的な概念を説明する思考を翻訳しようとするときには、おそらく皆さんが想像する十倍ほどの影響が出ます。

 wikipediaの表を貼ります。

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 まずはしばらくこの表の中身をよく見てくださいね!あなたが知っている欧米人を想像しながら一つ一つ考えてみてください。そして、その上で、あなた自身が、日本と英語圏の言語的文化的な違いとはいったいどういうことなのかを感じなおしてください。読み手のあなたが意味をちゃんと考える。そのことこそが重要です。

 異文化コミュニケーションのむつかしさを知らない人にはぜったいわからないこの苦労...

 では。ここまで三つ問題があるうちの、第一の問題でした。では次に!

 第二は、日本語圏には「概念を中心に社会を構築するという思考がそもそも薄い」ことです。この問題もかなり深刻で、これでは、MMTの受容だけでなく実践に関わります。だって理解に至らないものがちゃんと実践できるはずがないじゃないですか...

 そうするとこんな声が聞こえてきそうで...

 「んだったらMMTなんていらない!」

 ええと。。。じっさい、そういう人いますよね。。。

 でも、MMTでの分析はできてしまうのです。そうすると、この社会ハッキリどんどん悪くなっている。特に、見えない弱者はひたすら追い詰められていることが「わかる」。これ、何とかしてくれないと困るんですけど!

 そして、困るんです。そしてMMTから出てくるあるべき政策を煎じ詰めれば、核心の答えはあまりにもシンプルで。これだけ。これに尽きる。

 思いやりを持って全員の生活を保障せよ!

 でもそう言うと今度は、「じゃあいくら出すんだ?」とか「JGPの人に何をさせるんだ?」と来る。だからおまいらそれは概念をわかってないんだってばさ。素人はともかくプロがそれ言うなちゅうの。

 話がズレてしまいましたが、これが第二の問題です。「概念を中心に社会を構築するという思考がそもそも薄い」。国会で法解釈の問題とかあるじゃないですか。憲法問題とかまさにそれ。

 理念を言葉で表現して、言葉によって統治する。これを意識している人が庶民側に多くない。それも日本が独特なところなんです。日本はかなり独特です。これが完全に悪い方に出ている状況だと思います。

 第三は、一と二の合わせ技です。

 言葉が先行するローコンテキスト文化圏である英語圏にいる MMTer たち自身が、その文化圏における基本概念の解釈や文脈をめぐる闘争をしているわけです。文脈とは、コンテキストのことですよ!

 というわけで、この問題、言語面だけでどんだけねじれてるのよ...と悩むことになるわけです。これはそもそも、構造的に相当程度抽象的な思考を習慣にしている人でないとわからないのか?

希望はあるのか?

 じぶんは、それでもこの世界に希望はあると思います。その拠り所は二つあって、一つは「愛だろ、愛!」という答えそのものがシンプルであること。

 もう一つは、マルクスの理論がそれなりに受容されてきた実績が日本語圏には確かにあったことです。あれだけ抽象度の高いマルクスが受容された実績が。

 じぶんが思うに、MMTはマルクスが削ぎ落した人間のロマンティックな価値を補っていこうという運動です。マルクスに50年ほど先行する時代、ドイツを中心にロマン主義という芸術運動がありました。

 それをごく簡単にいえば、人間は、ぐるぐるループしながらも、自分らが「なぜか」知っている価値に向けて永遠に向上していこうとする存在だろと。そして、人間の価値、とりわけ美というものは、そうした運動の中にこそあると考え、実践していく運動でした。

 マルクスは観念論をひっくり返したといわれます。でも、そんなことはありません。できるわけがないんです。じぶんに言わせれば、ひっくり返した「つもりになった」ことこそに落とし穴があって、その欠落をMMTが発掘した。そういう構造になっているとしか思えないのです。暴力革命は必然ではない。

 これは抽象度の高い議論です。しかし幸いなことに、単純です。単純すぎるから力を持っていると信じます。じぶんごときに伝えられかどうかはわからない。でも、そうすることに価値がある。こういうのがロマンティックというわけで。

 もともとロマンとは、ローマ帝国における支配層の言葉「ラテン」に対する「大衆の言葉」を指したものです。だからロマンティックMMTとは「人びとのMMT」そのものでして。

 徹底的に下から目線。

 こういうことなんです。下には下がいるんですよ。そこを想像することです。

つづく

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