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第2回 ヘーゲル哲学とバランスシート(資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る)

 note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第2回として。

 さて、ヘーゲルの思考の特徴として、物事を「三つの何か」の関係で考えることが挙げられま。この思考過程で an sich (アン・ジッヒ)と  für sich (フュア・ジッヒ)というキーワード(?)が出てきまして、日本語に訳すときに多くの場合前者は「即自(的)」と、後者は「向自(的)」と変換されます。

 問題は、日本語の中にちょうどいい翻訳語がないことです。

 「存在」「本質」訳される Wesen(ヴェーゼン)もそうで、困るんですよねという話をこちら(Gesellschaft と Gemeinschaft, そしてWesen)で書きましたが、それも同じです。

 でも、その言語にとって基本的な言葉ほど説明に困る(=かえって翻訳が難しい)事態はよくあることなのです。

 さて、本エントリでわたくしは an sich と für sich の「感じ」をお伝えし、その上で、MMTで重視されるバランスシート(貸借対照表)が「左(資産)が an sich 」 で「右(負債及び資本)が für sich 」なのだということを説明したいと思います。

an sich の「感じ」

 an sich から行きましょう。

 注目は「赤ちゃんの頃」の認識です。

 下のマンガをご覧ください。

 
 赤ちゃんの意識にとって「手」と「黄色い物体」は「別の形で存在」しています。はず初めに赤ちゃんは、その「手」は自分が自分以外の何かを触って認識したり、それに働きかけたりする(持ち上げたり)する器官であると認識します。

 主観の誕生です。これを「 an sich な赤ちゃん」と呼ぶとしましょう。赤ちゃんがぴんとこない方は「 an sich なわたし」でも構いません。

 この時、赤ちゃんはまだ自分が人間であることを知りません。

(歴史的に、人間以外の動物、たとえば狼に育てられたヒトもいたようですが、そういうのはさしあたり除外します。)

für sich の「感じ」

次に、für sich。

 ほとんどの赤ちゃんは人生の早い時期に自分が人間であるということを知ります。その時に「他者に認識される自分」という状態がわかるようになっている。これが「 für sich な自己」を知る、という感じです。

 次に、みなに「〇〇ちゃん」と呼ばれることで「名前」を知るのではないでしょうか。呼ばれることによって「 an sich な自己」と「 für sich な自己」がその名前において一つのものだとわかる。

 とまあ、こういう感じです。

赤ちゃんの自己認識とバランスシート

 次に、バランスシート(貸借対照表)。

 会計で言うバランスシートは、会社などの財務状況を表す重要な表で、税務署や投資家や銀行が強い関心を持つ表です。

 どのようなものかを知りたい方は、google の画像検索でイメージをつかんでください。

https://www.google.com/search?q=%E8%B2%B8%E5%80%9F%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8&rlz=1C1GCEU_jaJP820JP820&sxsrf=AJOqlzUyGbyoDA7LW3FURs3HJQR7uZzABA:1675762501696&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjnzZDljYP9AhUCG4gKHRXvD5YQ_AUoAXoECAEQAw&biw=2133&bih=1041&dpr=0.9

  バランスシートは次のような構造をしています。

 で、これを踏まえて、下の図を見てほしいのです。

  an sich と für sich はこういう「感じ」です。

  an sich は「主語に続く」という感じがあります。

「私は〇〇ができる」のような。

 赤ちゃんなら、本人が「見える、見る」「聞こえる、聞く」…などをするための内なる力がある。

「Aの資産」もまた「内なる力」です。

 ここで「内なる力」は、自分以外という「外部」を要請している、つまり「外部」があることが前提になっているということがわかると思います。

 für sich の方は「述語」という感じです。「自分以外」が主語にあって、「外部の主語に対する自分」です。

an und für sich

 最後、 an sich と für sich を統合する(統合している)のが an sich と für sich を合体させた an und für sich なのですが、ここがポイント!

「存在する」、つまり何かが「ある」とか「いる」というのは、まず an sich と für sich そしてこの二つに an und für sich を加えた三つの動き(モメント)になっているという話なのです。

 an und für sich がどうしてあるかを考えてみてください。もしこれがなければ「見えているもの」も、「資産」も考えることができないはずです。

 ヒュームという哲学者は「心は知覚の束だ」としたのですが、ということはたくさんの知覚を束ねる何かが必要ですよね。

 また、わたしたちはよく「主観と客観」と言いますが、その背後には「誰の?」「何の?」という認識(のようなもの)も働いているはずです。

 しかしどうして哲学者というのはこういうことを考えるのでしょうか?

 そのへんのところを次回にでも。 

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