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第7回「国定貨幣論」の本当の元祖、ニコラス・バーボンについて

 note マガジン「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第7回。

 資本論の脚注を眺めると、ニコラス・バーボンという人の引用が目立つことに気づきます。
  下のように冒頭の注2,注3、注7、注8で立て続けに四回登場しています。

 バーボンのどの著作からの引用であるかは注2に書かれています(岡崎訳を併記。強調は nyun)

(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.)
(2)「願望は欲望を含む.願望は精神の食欲であり,肉体にとって空腹が自然的であるように,自然的である.…大多数(の物)は,それらが精神の欲望を満足させるからこそ価値をもっているのである.」(ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究.ロック氏の諸考察に答えて』ロンドン,1696年,p. 2, 3.) 

 マルクスはバーボンの著作の長いタイトルの末尾を端折り、その代わりに「 .etc」 を付ける省略をしていますが、ちゃんと書くとこうなるはずです。

"Discourse concerning coining the new money lighter in answer to Mr. Lock's Considerations about raising the value of money"
『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究.貨幣の価値引き上げに関するロック氏の諸考察に答えて』

 この文書の原文ですが、たとえばここで読むことができます。

(追記)こっちがいいかも↓。背景が書かれている前文も収録されている。

バーボン論考と資本論の記述の類似について

 さて、わたくしがここで語りたいのは、このバーボンの論考と資本論の冒頭部分の記述の展開がそっくりだということです。

 そのためにバーボンの冒頭部分 nyun 訳で少々。

 ロック氏の本における、貨幣の価値を上げることに反対するすべての議論は、以下の一つの仮定から引き出されている。「銀には本質的な価値(Intrinsic Value)があり、それは人々の一般的同意(Common Consent)がそれに置く価格または評価であり、このことによって他のすべてのものの価値の尺度となっている」との。もしこれが真実でないとすれば、彼のすべての帰結は間違っているはずである。

 さあ、ここからです

 氏が間違っていることを証明するためには、富〔RICHES〕一般について論じ、物の価値がどのように生じるかを示すことが必要であろう。
富とは、そうした物のすべてを巨大な価値として表現するものである。
価値とは、物の値段のことと理解されなければならない。つまり、売られる値打ちがある物なら何でもということである。古い格言にあるように Valet quantum vendi potest.(価値とは売れる値段のこと)、なのである。
すべての物の価値は、その用途から生じる。
用途のない物は価値がない。英語のフレーズで「They are good for nothing」と言うように。
 すべてのものに価値を持たせるところの用途は、一般に二つに大別される。つまり肉体の欲求を満たす用途であるか、精神の欲求を満たす用途であるかのどちらかである。肉体の欲求を満たすために必要であることから価値を持つ物とは、あらゆる種類の食物や薬など、生命を維持するために有用なすべての物である。
 精神の欲求を満たすのに有用であることによって価値を持つ物とは、欲望を満たすすべての物である。(欲望[Desire]は欲求[Want]を意味し、それは心の食欲であり、身体にとっての飢えと同じくらい自然なものである)つまり人生の安楽、快楽、または華やかさに寄与することによって、精神を満たすのにあらゆる方法で役に立つすべての物である。

バーボン論考の冒頭

 どうでしょうか。

 ここを読んでいらっしゃる方で資本論の冒頭をご存じない方がいるとは思えませんが、いちおうそちらも nyun 訳で引用しておきましょう。

資本制生産様式が支配的である社会(複数)では、富は『商品の膨大なる集積」として現れ、個別の商品がその要素形態として表れている。だから我々の研究は商品の分析から始まる。

商品はまずもって外界の一対象(Gegenstand)であり、その諸性質によって人類の何らかの種類の欲望を満たす物体(Ding)である。この欲望の本性(Natur)、つまりそれが胃袋から生じるものか、あるいは空想から生じるかは、ここでの分析に何等影響するものではない(二)。また、その物体がどのようにして人類の欲望を満たすものであるか、つまり直接的に生活の手段(Mittel)つまり享楽の対象としてであっても、もしくは間接的に生産の手段(Mittel)としてであっても、その違いはここの分析には影響しない。

鉄や紙など、それぞれ有用な物体は、二重の(doppelt)観点、つまり質と量との両面から観察することができる。こうした有用な物体はどれも、多くの性質がまとまった一全体(ein Ganze)であり、だからさまざまな方面に有用ということになる。これら物体のさまざまな方面の諸用途は、人類がその都度発見してきたものである。有用物体の分量の社会的な公認尺度(Maß)もまたその都度決められてきたものである。商品の量を測る尺度にはさまざまなものがあるが、それは秤量される対象の本性(Natur)が多種多様であるためであり、あるいは慣習でそうなった部分もある。

資本論の冒頭

 どうですか?

 バーボンの論考は1696年のものであり、資本論の執筆はその160年以上後の1860年代のことです。つまりマルクスは自分のひいおじいちゃん世代の論者に、論理バトルを挑んでいるという形になっているわけです。

ニコラス・バーボン、信用貨幣論、国定貨幣論

 さてわたくしは『資本論を nyun とちゃんと読む』にあたり、バーボンのこの文章を一気読みしたのです。またバーボンの他の文章もいくつか。

 そうしたらとても興味深いことがわかりました。

 バーボンは、今でいう「信用貨幣論」「国定貨幣論」を完全に先取りしているのです。

 とりあえず二か所引用しましょう。

貨幣は、各貨幣に含まれる銀の価値以上に、それが鋳造される政府の権威から何らかの価値を得ていないだろうか?
whether Money has not some Value from the Authority of the Government where it is Coined, above the Value of the Silver in each piece?

貨幣は一般的に何らかの金属で作られているが、それは絶対的な必要性よりも、むしろ便宜的な理由による。公権力から生じる価値は、金属と同じように便利で、偽造されないように保存できるものであれば、何でも同じように設定することができる。
Money is commonly made of some Metal, but it is more for conveniency, than of absolute necessity. For the Value arising from Publick Authority, it may as well be set to anything else that is as convenient, and can be as well preserved from being counterfeited.

ギニー金貨の価値と政治


 わたくしがいちばん驚き、面白く読んだのがギニー金貨のエピソードです。

 ギニー金貨の歴史的位置づけについて自分で説明するのは面倒なので、齊藤誠先生のスライドから拝借。

齊藤誠スライド 第5部:『金貨と銀貨の間の闘争』より

 ギニー金貨は「20シリングの価値」として1663年に発行が始まり、1717年に「21シリングに固定」されます。

 1717年に固定されたということは、それまでの間は?

 ここが面白いところで、ギニー金貨には額面の数字がなく、つまり法定の価格が存在せず、その取引価格は市場に任される形になっていたわけです。

 このことを踏まえてバーボンの文章を読んでみましょう。

 ギニー金貨はそれまで30シリングで流通していたが、下院が28シリングを超えてはならないと決議するやいなや、すべての人はそれ以上では受け取らなくなった。さらに26シリングを超えてはならないという決議がなされ、かといって、いくらが適正なのかの定めはされなかったのだが、それ以来、26シリング以上で受け取る者はおらず、多くはそれ以上では受け取らず、価格に依らず受け取りを拒否する者もいた。
 For Guineas, before their meeting, went currant at Thirty shilings; but, upon the House of Commons voting that they should not exceed Eight and twenty, every man presently refused to take 'em for more. And upon another resolution, That they should not exceed Six and twenty, and not declaring at what price they should be currant, no man since will take them for more than Six and twenty, most refuse to take 'em at so much, and some refuse the taking of 'em at any price.

 面白いと思いませんか!

 ちょうどモズラーが(MMTが)現実を見て、その観察事実に依拠して「金利は市場で決まっているのではなく、統合政府が決めてるじゃん」という指摘をしたのとそっくりだと思うんですよね。

 といわけで、貨幣国定学説の元祖が19世紀に生まれたクナップである、とか言うのはまったくおかしい。

嘘で本を売る日本経済新聞出版

ギニー金貨とモズラー提案

 さて鋭い方はもうお気づきかもしれませんが「政府の権威がギニー金貨の価格を決めているよね」というバーボンのこの話は、MMTが主張するところの「国債や労働力という商品の価格を政府が決めているよね」という話と同じ論理の形をしていますよね!

 ところでギニー金貨が1717年に「21シリングに固定」されたのはなぜでしょう?
 どうして最初に定めた20でなく21?

 一説にはこれは「心づけ」のような意味があったと言われています。20シリング支払えばいいところをギニー金貨で支払えば1シリング分プレミアムが付けられるというわけですね。つまり「チップ」のような役割を果たす。

 これを逆に言うと「チップ相当の労働の対価」が、このプレミアム分としてみんなによって価格付けされるということになる。

 モズラーの初期の提案、つまりJGPという名前が付けられるより前の彼の提案に、公的機関の補助的な労働の価格を固定してはどうだろうか?というものがあったのですが、ギニー金貨のこの話はそれを思い出させます。

バーボンに関する先行研究のご紹介

 最後に話を戻すと、資本論の論理を味わうためにバーボンの論理を知っておくことはとても重要だとわたくしは考えます。

 バーボンがどのような人物で、どのような考え方をしていた人なのか?については、損保会社OBである永井治郎氏の素晴らしい研究が存在します。

 また、バーボンの小冊子についてはわたくしより先に note などで紹介なさっている方がいらっしゃいます。

 けど荒川さんのこれ、最初のちょっとだけなんですよね(笑)

 この続きが実は面白いので、わたくしもこれから翻訳を引き継いでおそらく本邦初の全訳を完成させたいなと思っています。

 応援よろしくお願いしまーす。


 



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