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第22回 マルクスの「価値」とシェリングの「美」は似ている - (sich darstellen するもの)

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第22回。

(初めての方へ・・・このシリーズは「資本論を nyun とちゃんと読む」と題して進めている資本論第一巻の逐文読解プロジェクト(最新エントリはこちら)の補足であり、背景説明であり、読解中のワタクシの思考の垂れ流しでもあるというものです。)

 さて今回、ここらで、いよいよ dar-stellen という言葉の話を始めましょう。

労働(価値)が商品に現れる(sich dar-stellen する)

資本論を nyun とちゃんと読むの方は、現在、第一篇第一章第一節の最後の方に来ています。ここに、一見したところ何でもない平易な文が出てきます。

Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4.

この個所の翻訳ですが、読みやすさを重視する中山(日経BP)はこうしています。

たとえば豊作の年であれば8ブッシェルの小麦を収穫できる労働量でも、不作の年にわずか4ブッシェルの小麦しか収穫できないこともあるだろう。

なんか、小学生でもわかる話ぽいですよね。何でもないですよね。
岡崎(岩波文庫)は、こうです。

同量の労働でも、たとえば豊作のときには8ブッシェルの小麦に表わされ、凶作のときには4ブッシェルの小麦にしか表わされない。

 うん、直訳ならこうなるのですが、日本語としてわかりにくいですよね。
しかし、やっぱりこういう感じで訳さないとマルクスが価値について何を語っているのかがさっぱりわからなくなるよなとワタクシは思うのであります。
ちなみに現時点のワタクシは、以下のようにしています。

たとえば、同じ数量値の労働が、豊作のときには8ブッシェルの小麦に現れ、凶作のときには4ブッシェルの小麦に現れる。

 岡崎が「(〇〇が)表される」と受動態で訳したところを「(〇〇が)現れる」と能動態に変えただけですけれど、どうしたらベストなのか悩んでいるんですよというわけ。

 別に岡崎が間違っていると言いたいのではなく、この違いは「彼は身を横たえた」と「彼は横たわった」の違いくらいのものですから。

 そしてちなみに、「彼は身を横たえた」も「彼は横たわった」も、ドイツ語で言おうとすると 「Er legte sich hin 」とするしかない。つまり「Er legte sich hin 」をどちらに訳すかは、文脈なり訳者の解釈(や趣味)次第でもある。

 ワタクシとしては「表される」という翻訳だと、「誰が(何が)表すの?」ということがたいそう気になるんですね。

 日本語の場合「~と思う」とか「~と感じる」を婉曲に言いたいときに「~と思われる」「~と感じられる」という受け身表現がしばしば使われる。だから受け身に翻訳すると曖昧さを醸し出す。

 ところがなにしろ資本論は曖昧志向とは真逆の科学志向の文脈なのですから Die Arbeit stellt sich in Weizen dar という骨格は、ガツンと「労働が小麦に現れる」と行きましょう。

マルクスの「価値」とシェリングの「美」は似ている

 ここで中山訳をもう一度。

たとえば豊作の年であれば8ブッシェルの小麦を収穫できる労働量でも、不作の年にわずか4ブッシェルの小麦しか収穫できないこともあるだろう。

 なぜこれが良くないか?

 仮にもしこれをドイツ語で言いたいのであれば sich dar-stellen という言葉を使うはずがないんです。

 カントやヘーゲルの言葉に馴染んでいる人なら「ああ、だいたいあのへんの話ね」と分かる言葉が選ばれている。これは資本論だけをいくら一生懸命読んでもわからないところです。

 けれども、この時代のの「知」の展開ぶりに(ドイツ語で)親しんでさえいればマルクスの語法(ターミノロジー、言葉の連関)がその上に立っているということは容易に感じることができる。

 類推の力が利くわけです。

 というわけで、シェリング。

 シェリングはヘーゲルと同時代(マルクスよりちょい上)の哲学者ですが。マルクスの価値の論じ方は、このシェリングの美の論じ方と似ている\(^o^)/

 そんな話をしたいと思います。

 シェリングによれば、芸術家は哲学者が「真理」を扱うように「美」を扱うとか。(だったかな?)

かつての自分に「価値」を説明するなら?

 今でこそ偉そうなワタクシですが、いわゆる古典芸術が好きだった高校生のころに資本論を最初の数ページで投げ出したことがあります。

 真善美の話ならともかく「なぜ商品???」となるわけです。

 これは類推がまったく働かないせいで著者が何が言いたいのかがまったく掴めなかったのだと言えると思うんですよね。

 当時の自分に説明するならどうするか?

 「これは価値についての話で、商品と価値の関係は、ちょうど芸術作品と美の関係に相当するんだよ」みたいにしますかねえ。

 そして「作品の『美』を生み出すのは誰だろうか?」という話をするでしょう。

 そして今度出るこの本を勧めるかもしれない。

https://twitter.com/shinsho_review/status/1695278210571960343

 面白そうですね!
 「美は、美しいものにあるのか、感じるひとの心にあるのか」

 著者の井奥さんが2021年になさったセミナー(近代美学入門)の紹介文を見てみましょうか。

音楽や小説に感動して「芸術とは天才が創造したものだ」と思ったり、生い茂る草花にうっとりして「絵になる風景だ」と呟いたり――そんな経験がある方は、少なくないのではないでしょうか。しかしどちらも実は、近代美学に基づいた発言です。近代以前の人々なら、このような表現をすることはなかったでしょう。 わたしたちが美や芸術について何気なく抱いている ”常識” の多くは、17~19世紀のヨーロッパで成立した価値観です。この時代に、美学(美や芸術に対する思想)は大きく転換しました。本講座では、その転換の大筋を紹介します。

 「美学」といえばやはりカント。そしてこれを発展させるシェリング。

 マルクスの「価値」は、このあたりの図式が分かっていけばいくほど、リアルにわかっていくことでしょう。

 このエントリの最後に、明らかにマルクスがカントから受け継いでいる特徴を挙げておきましょう。

 一つには言語分析アプローチ。

 資本論第一章の第三節、いわゆる価値形態論のところでマルクスは、 「x Ware A ist y Ware B wert.」すなわち「x 量の商品Aは y 量の商品Bに値する」という言葉の分析から価値の語りを始めます。

 美学の古典中の古典である「判断力批判」でカントは、われわれはどのようなときに美しいと「言う」「見做す」だろうか?という分析論から美を語り始めていたのでした。そしてそこから共同体の「共通感覚(Gemeinsinn/sensus communis)」を見出していきます。

 で、マルクスがカントから受け継いだ特徴として、もう一つ「無関心性」をベースにしたアプローチというのがありますかね。

 うん、これは重要\(^o^)/

 そちらを次回、できればシェリングを絡めつつ。

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