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第13回 "平均"と訳していいのだろうか?

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第13回。

 資本論を nyun とちゃんと読むの方は、第一章の第一節の最後の方に差し掛かっています。実はそこに出てくる Durchschnitt という語についてここ数日考えてしまっていました。

 訳文としていったん通例通り「平均」としてはみたものの、どうも座りがよくない気がするのですよね。
 ドイツ語を読んでいるときにはあるイメージがでてくるのに、「平均」とするとそれが消える。さらに「平均」だと余計なニュアンスが紛れ込むような。

 さらに、その消える部分の意味こそが資本論の論理展開の上でかなり大事なはずだぞとも思うのです。
 資本論では次のように登場しています。

Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht.

 まずはこう訳してみたわけです。

その個々の労働力は、他と同じの、同一出力の人間労働力である。これ(個々の労働力)は社会の平均的な労働力という性格をもち、社会的平均労働力として機能するのだから、ある一つの商品の生産に必要ということになるのは、平均として求められる、社会的に求められる労働時間だけなのだ。

  訳が間違いというわけではない。でも納得できない。今回はこの話をしようと思います。

 関連して例として山形氏にようる英語版からの邦訳を紹介しましょう。
山形訳

こうした単位労働力のそれぞれは、それが社会的な労働力の平均単位としての特性を持ち、平均単位として機能する限りにおいて、他の単位労働力とまったく同じだ。つまり、その単位労働力は、ある商品を作り出すのに平均的にかかるだけの労働時間――あるいは言い換えると、社会的に必要なだけの労働時間――しか要さない。

山形はこの辺りの話に関して次ような注を加えていますね。

5 訳注:ここでの「平均」とか「通例」という物言いで、マルクスは市場というのをなあなあでごまかそうとしているのに注目。

ひどい!
けれども、そもそも英訳版だって、こう。

Each of these units is the same as any other, so far as it has the character of the average labour power of society, and takes effect as such; that is, so far as it requires for producing a commodity, no more time than is needed on an average, no more than is socially necessary.

 これやはり山形のように読めないこともない。なにしろ二つ目の Durchschnitts-Arbeitskraft は訳文から消えていますし。。。

 というわけで訳者の言語能力のせいとも言えませんし、それを行ったら上のわたくしの訳も五十歩百歩じゃないですか(笑)

 でも「平均」という訳語の足らなさは、山形の訳注における「わかってなさ」によって逆照射されていると見えるようになってきました。

マルクスからクーゲルマンへの書簡

 資本論のこのあたりの叙述が論理として大事な理由は、以前ご紹介した、マルクスのクーゲルマンへの書簡にも表れています。

 これもよいガイドになる思うので引用してみましょう。。

さまざまなニーズに対応する生産物の量には、それぞれに社会的総労働の一定量が分配されるはずだとということも、どんな子供でも知っています。社会的労働が一定割合で配分されているということは、社会的生産の形態によらずあたりまえのことで、単にその現われ方が異なるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則を消し去ることはできません。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則の表れ方の形態だけなのです。そして、社会的労働の連関が労働の個々の生産物の私的交換として現れる社会状態において、労働が配分(proportionelle Verteilung)された形態、それがまさに生産物の交換価値なのです。

俗流経済学者というのは、現実の、日々の交換関係と価値量とが直接には同一ではありえないということに、少しも気がつかない者のことです。ブルジョア社会の冗談は、生産の社会的規制が意図的にはまったく行なわれていないということになっていることにあります。合理的なものも本来必然的なものも、盲目的に均質化された形(Durchschnitt)でしか現れないのです。そういうわけで、俗流学者は、内的なつながりが明らかになると、現象と違うではないかと言いつのって、大発見でもしたような気になるのです。これはじっさいには、仮象にしがみつき、それが本当のことなのだ、ということにしているだけなのです。それでは、いったいなんのための科学でしょう。

 はい Durchschnitt が登場しました!
 この時のワタクシの訳文ではやっぱり「平均」とはしなかったようですね。

 とにかくまあ、少なくともマルクスにとってこのあたりが核心的な話なのだということはおわかりいただけるのではないでしょうか。

Durch-schnitt の ”感じ”

 Durchschnitt、それは我々が言う「平均」とはちょっと違うという話を少々。

 ものは試し、アベレージ(average、平均)を意味する Durchschnitt というドイツ語で画像検索するとこんな画像が上の方に出てきます。


Durchschnitt

 いったいこれは何でしょう?

 この感覚、英語や日本語の人にはないものですが、ドイツ語の人にはハッキリあるやつということです。

 これはたとえばカステラを半分に切るイメージです。

カステラのDurchschnitt


 名詞の Durchschnitt は 動詞 durch-schneiden から来ています。それは「真っ二つに切る」というイメージ。

 真っ二つに切ると切られたものはまったく同じ形になる。

 さらにそのそれぞれをまた真っ二つに切って四つにしても、それぞれは同じ形をしています。

もう一度 durch-schneiden


 四片のカステラにはほとんど差異はありません。こうして平均という意味になっていくわけですが、ワタクシが感じる日本語の「平均」とは何が違うのでしょうか?

 日本語の「平均」は「平たく均す(ならす)」です。差異があるのが前提でそれを平等にするという感じがある。

 ドイツ語の Durchschnitt は「一つのものを均等分割する」感じが強いの
と、差異が前提になっているとは限らない。

 違いはこのあたりだと思います。

 せっかくなので durch-schneiden という動詞のイメージをもう少し。

 接頭辞の durch は「すっかり」「全部通して」という感じのもので、語幹の schneiden は包丁やハサミで「切る」ことです。

 ちょうど資本論に仕立屋( Schneider )が出てきますがで、服地を裁断する職業だからシュナイダー。

 動詞 schneiden が名詞化して Schnitt となると「切られたもの」「分割されたもの」。「断面図」も Schnitt です。

 さらに durchschneiden で画像検索してみると、開通式などでのテープカットの写真がヒットすると思います。あれは一本のテープを多くの人が同じ長さに均等分割しているのですね。

durchschneiden中の人々

 またシュニッツェル(Schnitzel)というドイツ料理がありますが、それは肉を薄く切って衣を付けて揚げるやつ。

Schnitzel

 資本論に戻ります。

 当該箇所の直前に書かれているのは、商品世界で表されるところの社会の労働力の総体は「一まとまりの、持続する人間労働」として扱われているという内容でした。

 それが均等分割されているのですから、均等分割されたその各々は、静的に見れば(時間軸に対して垂直に見れば)「社会的に均等分割された労働力という性格」を有し(den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt )、動的に見れば(時間軸に沿って見れば)社会の総労働が等分割された力として働く(als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt)。
 だからそれが怠惰であることはそもそもないし、特に器用だったり不器用ということもありません。

 次回、このへんを改めて精読してみましょうか。

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