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「マルクスの貨幣論」の前にヘーゲルの論理を理解するための補論 その2

 天才マルクスの貨幣論とMMTを、下のイメージの全三回シリーズで書こうとしています。

第一回(プロローグ)
第二回(本論)
第三回(発展)

 今回は、第二回(本論)の議論に備えるための補論の2です(補論の1もあります)。

 ややこしい!

 今回の内容はヘーゲルの考え方の核心のご紹介!

 第二回(本論)で目指そうとしているのは、マルクスが資本論においてどのようにヘーゲルをひっくり返したのか?のイメージを提供することです。

 そこでのマルクスは、ヘーゲルの繰り出した大技に対し「ここしかない」という急所をピンポイントで狙いすまして捉えてカウンターパンチを入れた、みたいな感じなんです。

 だから、その前提知識がない読者、つまりヘーゲルの技をまだ知らない読者は何が起こったかわからない。

 マルクスに共感する読者はしばしばヘーゲルの洞察は全否定された、と思ってしまうかもしれません。

 そこで今回はヘーゲルの偉大さをほめたたえる方向で!

ヘーゲルの大発見、「モメント」のこと

 カントが「認識論的転回」によって、事物に先立つ人間の意識の問題を発見しそれを定式化したとすれば、ヘーゲルの革命は、そこに「瞬間の出来事」という観点を導入したことだと思います。

 これは、「永遠の相のもとに」世界を把握したスピノザや、永遠平和状態を国家理念にすべきとしたカントへのカウンターパンチ?拡張?になるのです。

 どのようなことか?

 前回のこの表。

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 わたくしはこう書きました。

この図で、左は「一般・普遍」というカテゴリー(das Allgemeine)で、右は「個別」(das Einzelne)というカテゴリー。

 実はヘーゲルの哲学において das Allgemeine や das Einzelne は「カテゴリー」ではなく「モメント」と呼ばれます。

 単数形が Moment、複数形が Momente で、ほとんと日常語なんですね。ヘーゲルを理解するためにはこの言葉の感覚が絶対に必要になるはずです。

 この語はたとえばこんな状況で現れます。

Warten Sie einen Moment, bitte.

 想像してください。

 あなたは大阪府庁の若手職員。

 当選したばかりのH知事は、まず全職員に「上司への不満があったら僕にメールして」というメールを全職員に送ります。そして「最初の朝礼」として、30歳以下の若手職員だけをホールに集めます。

 そして壇上から、いかにも新自由主義者らしくこう言います。

 今ここで本当に無駄なものを省いてください。

 どう思いますか?

 演説は続きます。

 それは府民のためにもなるし、皆さんの仕事にもつながるんです。

 知事は公的支出に財源は必要とでも思っているようです。

僕はこれ(異例の朝礼のこと)9時からやりたいと言ったんです。9時か8時45分から。

 ん?

そしたらこれ超過勤務になりますと言われた。

 始業時間が9時または9時15分なわけです。

民間では始業前に朝礼をするのが普通。もし朝礼をこれから8時40分か50分にやると、それで組合等が超過勤務の請求や超過がどうのこうのと言ってきたら僕はこう言います。

 さらに。

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始業時間から就業時間まで一切タバコ休憩から私語から何もぜんぶなしにしてくれ。一切なしだ。

 ストップ!ここです。

 これ、ドイツだったら大騒ぎになると思います。それは「文字通り意味がわからない命令」だから。

 「一切」というのは Allgemeine。

 で「一切なし」なら、個別の事柄 Einzelne は何一つないことになるわけです。ほんとうに意味が分からない。

 わたくしなら「すると、何もするなってことですか?『無駄なことを省く』仕事はどうなるの?」と聞きたくなる。

 そこで、次の話に行く前に「ちょっと待ってください!」言うかもしれません。 

 Warten Sie einen Moment, bitte.(ちょっと待ってください!)

 この "einen Moment" 、日本語の「ちょっとの間」、これがモメントのニュアンスです。

 上の話は実際に起こった事件ですが、「ちょっとまって下さいよと」言ったのが大石あきこさんで、当時の記録をブログで読むことができます。

 ここで言いたいのはこういうことです。

 ヘーゲルは Allgemeine や Einzelne は「カテゴリー」というより「モメント」だと喝破している。

Allgemeine や Einzelne は「カテゴリー」でなく「モメント」であり、そこには Urteil(判断)がある

  こういうことです。

 たとえば「仕事中の休憩」という概念において、トイレに行くのは休憩でしょうか。

 背中がかゆくなって孫の手で掻いたらそれは休憩?

 こうした問題が常に起こる。


 あるいは動物という概念についても「ウイルスは動物か?」という問題が常にでてくるわけですね。

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 そんなときは、人間が判断するわけじゃないですか。

 「自己増殖するから動物!」

 「動かないから動物ではない!」

 みたいにね。

 「宇宙人は動物か?」というときにも意識の中で同じことが起こります。

 一般化すると。。。

 「○○は動物か?」という問いは問を立てたときにもう「犬」や「猫」や「牛」のような、あたりまえだ!という場合を含んでいる。

 だから、Allgemeine(一般) にせよ Einzelne(個別)にせよ、はたまたBesonder(特殊)にせよ、これらは「短い時間」の精神現象だ,というわけ。

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認識の弁証法

 人間の思考は常に 「すべてのAllgemeine」,「個別の Einzelne」, 「特別のBesondere」 の展開、つまり弁証法的な運動になっている。

 ヘーゲルのこの把握がカント哲学を一歩前に進めた、ということができると思います。

 カントと言えば「物自体」、これは Ding an sich。

 Ding はモノ、an は 英語の on みたいなやつで直接的な接触を表す感じの前置詞で、sich は英語の self。

 わたしたち人間は「事物それ自身」を認識していない。視覚や聴覚などの感覚を通してしか認識することができません。

 これがカント。

 ヘーゲルはそうでなく、人間の意識で起こっていることは、 an sich に対して für sich という形態が現れ、それが an und für sich という形態に統合される展開運動、これが認識だ、弁証法的だ、みたいな。

 知事が「①休憩は一切なしだ!」というときが Allgemeine(一般)のモメントに現れているのが「休憩それ自体( 休憩 an sich )」です。

 次に、「②タバコ休憩も私語も」というときは Besondere(特殊)なモメントで、タバコ休憩と私語が順に タバコと私語が休憩( 休憩 für sich )なのか?という形で表れ、「③一切なしだ」というとき「判断」でがなされており、タバコ休憩と私語は休憩だ、ということになって、これらは休憩の個別例( 休憩 an und für sich)に統合される。

 最後にこの順番を図解しておきます。

新知事の意識のモメント

 知事は「休憩について話すよ」と明言していませんが、文脈から休憩の話であることは自明だと思います。

(このように、論理の順番と発語の順番は一致しているとは限りません。あたりまえですよね)

 だから最初のモメントは、こうだったはず。

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 知事の意識には次に「タバコ休憩」が、直後に「私語」が現れています。

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 最後は、こう。

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 ひとりアウフヘーベン\(^o^)/

 こうして、統合された休憩(Einzelne)はタバコ休憩と私語を含んだものとして休憩一般(Allgemeine)に戻ります。

 一人の意識で判断するにしろ、議会や裁判で判断するにしろ、わたしたちの精神、社会精神とか世界精神はこのような形式で進歩している!


 ヘーゲルが世に問うた大技の核心は、いま図示した「意識のスーパースローモーション的描写」にあるのです。

 それではいよいよ本編に戻れるかなっ

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