「マルクスの貨幣論」の前にヘーゲルの論理を理解するための補論 その1
今回はこちらの続きとというか。
続きというより始まったばかりの「本編」とは別の、いわゆる「外伝」とか「スピンアウト作品」みたいな。
ややこしい(笑)
マルクスの天才を語るためには、マルクスがカウンターパンチを放った相手の論理を説明しないといけないのだけれども、実はこれが難しい。
「資本論ワールド」というサイトがそれをやろうとしていて、こちらです。
こちらのサイト、実はかなり好きなんですよ。
なんだけれども、"an sich" というありふれた単語を説明するために、「資本論のヘーゲル事典」というものをこしらえて、こんな説明をしたりする。
「即自an sich」は発展の可能性を秘めながらも、いまだに未分化・未展開の状態をいう。
わたくしとしては、たとえば「an sich」みたいなめっちゃ日常的なことばについて、とてつもなく非日常的な日本語を持ってきて「説明」することを避けたいわけですね。
それだと説明にならないじゃん。。。
辞書的、事典的な理解の罠
というか、そういう辞書的な理解がヘーゲルの思想をゆがめている、もっと言えばそれむしろ「反」ヘーゲル的じゃんバカ、みたいに思ったり。
辞書的な理解こそが、第一回で説明したこの事態を招きます。
まあ、かといって、じゃあわかりやすくするためにはどうすればいいだろうか?
別の方法で行かなければいけません。
で、どうしよっかなーと考えていたら、SNSで数日前に流れたきたあるつぶやきのことを、ふと思い出したのです。
こちら、ズバリお金の話をなさっています\(^o^)/
最初の文、「通貨は交換・尺度・貯蔵の3要素さえ満たせば成立」するのだというけれど。
この方はこういう思考をしている。
でも、そうなのかな?って感じですよね。上の「どうぶつ」の例を確認してみてください。
この人は続けて「ステーブルコイン」とか「デジタル通貨」とかいう何かも通貨だよ、みたいなことを書かれています。
その何かを通貨に含めるかどうかは誰でも自由に決めていいのだから、読み手のわたくしとしては「ハァそうなんすね...」ってなるくらいで。
そうすると最後の「彼らにはデジタル通貨を理解する事は出来ないでしょう。」ってところ、いったい何の主張をしているのだろうか。
「僕はAをBだと思うんだけど、彼等にはそれを理解できないだろうね」、みたいな主張をするなら、僕ちゃんはどうしてAをBだと思うのか、あるいは僕ちゃんがAはBだよとわざわざ言い募ることで、何か新しいことを言っているのだという主張のひとつくらいしてくれないと、ハア勝手にどうぞ?、なんですよ。
頭がわるいのかなあ。
流れてきた上のつぶやきの元発言もなんか論理が変ですよね。
一文づつ。
金本位制でなくなったことで、通貨を「裏付ける」ものはなくなったとは考えないのでしょうか?
金本位制は制度ですから、制度がなくなったら「制度が通貨を裏付けることにしているもの」はなくなりますが、「裏付けるもの」がなくなったとは全く言えない。これ、常識的な論理ですよね。
通貨の「裏付け」なるものは必要なのでしょうか?
これは重要な問いかもですが、そもそも「必要なのか」を問う前に、「現実に裏付けているものは何だろうか?それとも存在しないのだろうか?」という問いと、「政府が ”我が国の通貨は○○に裏付けられていると" と決める意味や必要性はあるのか?」という問いが先立っている。
たとえば閣議決定したらそうなるの?(笑)
その「裏付け」を生身の人間としてしまっていいのでしょうか?
そもそもどうやるのそれ?
MMTの事実描写ではない、貨幣観には賛同しかねる…
いったいなんでしょうねえ、これは。
MMTは貨幣はIOU(債務証書みたいなもの)だよ、と言っている。この貨幣観に賛成しかねるならご自由に!
っていうかですね。
こちらのケースも、「通貨は裏付けがあるもの」あるいは「通貨は裏付ける必要があったりなかったりするもの」、のように話者が自ら論理を狭めていて、狭めたそのちっちゃな世界の中で「いい」とか「わるい」とか「賛成できない」とかやっているわけ。
哲学の議論はもっともっと巨大で貨幣を扱うなら「貨幣ってなんだろう?」から始まるわけ。
それは「どうぶつって何だろう」という問題とおんなじで、そんなに簡単じゃない。
そこには長い歴史があって、カントは言語の使用者の「認識の形式」の問題を発見し、ヘーゲルはそれを動的な弁証法に拡張したんです。
ちょっとヘーゲルぽくやってみましょう。
この図で、左は「一般・普遍」というカテゴリー(das Allgemeine)で、右は「個別」(das Einzelne)というカテゴリー。
あってますよね!
ここでヘーゲルは ”das Einzelne ist das Allgemeine” 、つまり
「一般・普遍」≡「個別」
と言ってのける。
(あー細かい突っ込みはやめてね)
この恒等式が論理の出発点になるわけです。
「そうか、なるほど」ってなるわけですよ。
そう考えれば、たしかにそういうことになる。
これはMMTが「貨幣(money)はIOUsである」と言っているのと似ていて、彼らはこう言っている。
「money」≡「IOUs」
ここで「貨幣」≡「債務証書」と翻訳するとちょっと意味がズレるのでもどかしいなあ...というのはともかく、ここは「なんかヘーゲルと同じだぞ」くらいに理解していただければ。
でしょ?「money」≡「IOUs」。
(金ぴか本が 150 箇所の IOUs という語をめちゃくちゃに翻訳し分けていることがどれだけバカがわかる?)
実を言うと、マルクスはもちろんヘーゲルも「金本位性」の話はもちろん「金本位制ならでは」の話だってしません。
そしてレイの入門も、実はとても繊細な言葉遣いをしているんですよ。「貨幣は○○に裏付けられている」といような安直な表現をぜったいにやらない。
They are not "backed" by physical things...
と ”backed” にわざわざ引用符を付けたり
paper money supposedly backed by gold
と、supposedly、「ということになっている」というニュアンスをわざわざ入れているのです(原著はね!翻訳本は屑なので\(^o^)/)。
さて。。。
補論その1、いかがでしたか?
まあ、とにかくヘーゲルもMMTもめっちゃ論理に忠実、ということで!
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