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天才マルクスの貨幣論とMMT(1/3)

 うれしいことにわたくしがマルクスに取り組むきっかけをくださった一人であるビル・ミッチェルがブログでマルクスを取り上げています。

 しかしです。

 ミッチェルが「マルクスの貨幣論(Marx on Money)」として紹介するのが資本論でなく初期の「経済学批判」であるということ、これはとても不満です。

 もちろん「経済学批判」の議論を取り上げるのがいけないということではなくて、マルクスの貨幣理論の真骨頂、そしてMMTへの接続は資本論にこそある!というのがわたくし nyun の主張だから!

 これを紹介しないでどうするのよ…

 って、わたくし、これとうの昔に書いていたつもりだったけれど途中でした\(^o^)/

 だからこれは世界初の発表だと思うので、できるだけしっかりと書いてみようと。

 これは理屈としてそんなに難しい話ではないはずなのです。

 でも天才の文章には天才であるほど、次のような事情がある。

天才すぎて理解されなかった資本論の出だし

 資本論の出だしはマルクス自身が言うように「商品の分析から始まって」おり、しばしば「価値形態論」と呼ばれるところです。

 ここにこんな式があります。

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 この式(Form)は貨幣形態(Geldform)とあるように紛れもなく貨幣の話なのですが、「商品の分析から始まる価値形態論」と思われてしまっていることで、ここの話がどれだけ凄いか、そしてどれだけ深く貨幣の本質を突いているのかを誰も気づかなかったと思うんですよね。

 これは 式D でしたが直前の 式C はこう。

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 これは「一般的等価形態(Allgemaine Wertform)」と言われたりしますが、等式であることから「等価」と訳す必要はなくて「一般的価値形態」とした方が適切でしょう。

 一般的(allegemaine)とは、すべてひっくるめた、という意味なのですが、上の式の " x Ware A "これが「一般化」されたということなんですね。

 20エレのリンネルは、上着やお茶やコーヒーや商品Aや、などなど... ということを表現しています。usw. は「などなど」で英語の and so on.

 一般化して「などなど」が入っている。

 式Dは「貨幣形態はあらゆる商品(”などなど”を含む)のそれぞれと等しくなっている」という天才の主張だということ。

 どうして天才か?

 経済学者たちはいまだに「金本位制」とか「労働本位制」という言葉を使うわけですが、マルクスは「貨幣は○○本位ではない」と見破っていることになるからです。

 貨幣になる商品の価値は、その商品以外のあらゆる商品の価値に基礎づけられているのであって、特定の商品ではないよと書いているわけ。

 それなのに、後の時代の人が英国などの制度に「金本位制」という名前を付けて、あろうことか「マルクスの貨幣論は金本位制」というバカが現れる!

 もうアホかと。。。

 でも読者はみんな凡人だから、ある程度は仕方ないんです。資本論より「経済学批判」の方が普通の人にはとっつきやすいと思います。

 こういうこと↓

シンプルで美しい言葉は理解されない

 マルクスは「資本論を書く前にヘーゲルを読み直すことがとても役に立った」と書いています。

 ヘーゲルの論理学を知っている人は、資本論におけるマルクスの論理がヘーゲルの論理学と同じ論理展開だと感じるかもしれません。

 実際そういっている人を発見。

 ところが、実はこの両者の議論は同じではない。

 それどこかマルクスはヘーゲルの論理を完全に逆回転させている。

 あまりにもキレイにそれをやってみせたから、誰もそれに気づかない。

 そういうことなんですよー。

 トップレベルのボクシングの試合をリアルタイム観戦していると、何が起こったのかわからないうちに一方がキレイに倒されていることがよくあります。

 これをスーパースローで再現すると、倒された方が仕掛けた技の力を利用した高度な返し技だったことがわかる、みたいな。

 このとき倒された側が出した技もまたトップレベルなわけですよ。

マルクスのクロスカウンター

 下は資本論第二版にマルクスが付けた序文から(岡崎次郎訳)。

 ヘーゲル弁証法の神秘的な面を私は 30 年ほどまえに,それがまだ流行していたときに,批判した。ところが,私が『資本論』の第一巻の仕上げをしていたちょうどそのときに,いまドイツの知識階級のあいだで大きな口をきいている不愉快で不遜で無能な亜流が,ヘーゲルを,ちょうどレッシングの時代に勇敢なモーゼス・メンデルスゾーンがスピノザを取り扱ったように,すなわち「死んだ犬」として,取り扱っていい気になっていたのである。それだからこそ,私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め,また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえしたのである。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は,彼が弁証法の一般的運動形態をはじめて包括的かつ意識的な仕方で述べたということを,けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには,それをひっくり返さなければならないのである。

 この最後の一文が有名で、ここが重要なヒント。マルクスはヘーゲルの弁証法ではダメだと言っている。偉大な思想だと認めた上で、自分は「ひっくり返す」ことで「核心を発見」したと言っているのです。

 最後の文の原文。

Sie steht bei ihm auf dem Kopf. Man muß sie umstülpen, um den rationellen Kern in der mystischen Hülle zu entdecken.

 muß と umstülpen を強調しました。

 ここで muß は英語のマストで「しなければならない」でも良いのですが「そうする必要がある」というニュアンスもあります。

 umstülpen は、「ひっくり返す」とか「裏返す」ですが、裏返し方にもいろいろあって、下の図で言うと一番上がこれ。

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 上に先立つ箇所。

私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものと違っているのではなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにとっては、人間、の脳髄の生活過程、すなわち、彼が『理念』という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化している思考過程が現実世界の創造者なのであって、現実世界はただ『理念』の外的な、現象形態であるにすぎない。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは人間の精神によって反映され、思想の形に翻訳された物質的な世界に他ならない。

Meine dialektische Methode ist der Grundlage nach von der Hegelschen nicht nur verschieden, sondern ihr direktes Gegenteil. Für Hegel ist der Denkprozeß, den er sogar unter dem Namen Idee in ein selbständiges Subjekt verwandelt, der Demiurg des wirklichen, das nur seine äußere Erscheinung bildet. Bei mir ist umgekehrt das Ideelle nichts andres als das im Menschenkopf umgesetzte und übersetzte Materielle.

 ここはちょっと難しいと思いますが、要は、人間(ヘーゲルとか普通の人)の頭の中では物事がひっくり返っている。それを指摘しますと言っている。

 ここで大事なのが、フォルムつまり形式、形態です。フォルムというのは「式」とか「図」というニュアンスがあって、言葉に関しては「内容でなくて形式の方」だよ、という感じ。

(ここの読者の皆さんは、この「転倒の話」をご存じと思いますが、ふだんこれを読んでいらっしゃらない方、そして、初めてここに来られた方にもわかかるように、今回は気合を入れて書いてみます。
 これをちゃんと書いた文章は、世界でこれが初めてだと思う。だからこれを読んだあなたも世界の貨幣論の最前線に躍り出ることになりますよ
\(^o^)/)

 そのために言語のフォルムの話を少々。

単語の入れ替えと誤謬論理

 「犬と猫は動物である」。これは正しい。真です。

 これを「動物は犬と猫である」とすると、これは間違いですよね。つまり偽。

 けれど皆さん、それでは「動物」っていったい何ですか?

 初めて「どうぶつ」という言葉を知った子供に、私たちはどうやってそれを説明しますか?

 「どうぶつっていうのはね、犬とか猫とかああいうやつ」

 というように具体例を列挙する以外にないはずなのです。

 だから「動物は犬とか猫などである」はむしろ常に正しいのですね。

 そうすると反対に、上で正しかったはずの「犬と猫は動物である」という文は、確かに正しいのだけれども、動物たち全体からすればめっちゃ限定された文章なわけです。

 実は私たちは、この限定に気が付かないことによる勘違いをしょっちゅうやってしまいます。それはクイズやゲームやなぞなぞ遊び、あるいは芝居や小説の技法でもあるわけですが、社会全体が勘違いをするということもしばしばあるわけですよ。

 こんな感じです。

 「犬と猫は動物である」

 →「動物には足が四本ある。だから...」

 人間はこういうことを大真面目でやっていたり、ある学問がそこから始まってしまっている場合すらある。

 つまり、何から何まで現実離れした、けれども論理体系としては正しいように見える、実はハッタリの学術体系が構築されてしまう。

 恐ろしいと思いませんか?

 この誤謬のパターンを図式化しておきます。

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語の入れ替えと、経済学 vs MMT

 主流経済学の思考とMMTにも似たような関係があります。

 上とまったく同じ形をしていることを確認してください。やはり「その他」「などなど」にあたる部分が重要な役割を果たします。

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 ここまでよろしければ、次に行きます。

 マルクスが資本論で魅せてくれたヘーゲルに対する芸術的超絶技巧のカウンターパンチをスローでよく見るために、もう一つ似た例を挙げます。上の例と似ているけれどもちょっと違います。

天動説と地動説

 下の図で「天動説」と「地動説」を並べてみました。

 この二つは形式が逆なのですが、どちらも「間違っている」とか「偽」であるというわけではないということを確認してください。

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 違いは真偽というよりも、むしろ「立場とか視点を変えることで真実がよりクリアにわかる形式になる」というところにあるわけです。

 地球を中心に考える思考でも間違いではないのだけれど、そうすると土星や木星などの衛星の軌道が変な形になってしまいます。

 また、古来から知られていた五つの衛星(水金火木土)より遠くの天王星(1781年に発見)や海王星(1846年に発見)の発見はかなり遅れたと思われます。

 海王星は望遠鏡で「発見」される前に、計算によって「予測」されていました。これはたぶん天動説だったらできなかったことでしょう。

 天王星の軌道がどうも「計算」と合わなくて、どうももう一つ別の惑星のあるみたいだ…という話が先にあり、それが望遠鏡で確認されたという順番。

 この話は「現代-科学の成功物語」の一つということになっている。

 だから「天動説は間違った古い考え」と言うよりは「地動説がエレガントで役に立つ理論である」っていう感じです。


 さて、準備は整いました。

 次回、第二回でマルクスの超絶技巧と、MMTとの驚くべきつながりを詳しく見ていこうではありませんか。

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