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ロマンティックMMT−11: 生きていることに価値がある(JGPの話1)

 MMTを主題にした文章を書く以上JGP(職業保証制度)に触れないといけない...

 ですよねー。わかってはいるんです(泣)

MMTの「わからなさ」問題

 JGPのないMMTは「ありえない」というか「それだとつまらない」、「それだとぜんぜん狭い」かな。

 でも、やろうとしてみるとこれがすごく難しい。そう、むつかしいです!

 だいたいにして、じぶんが始めから表現してみたいのはJGPの図。にゅんブログの頃からです。あっちでも「目的はJGPをイメージで表現することです」と何度も書いたと思います。 

 それが、なぜかJGPを英語で考えるのは簡単なんです。ところが日本語圏の人に伝えようとすると、そもそもどうしていいか「すら」わからなくなる。いったい、どうして日本語だと難しいのだろう?それがずっとわかりませんでした。

 この一年のじぶんの歩みは、この問題に悩みつつ、この国に「変なMMT」がじわじわと広まっていくのを目撃してきた…という感じです。

 じぶんには、MMTはちゃんと広まらないと困る、切実な事情があります。じぶんはたまたま、障碍者や難病の人やその家族の辛さがよく見える環境にいて、だから彼らが社会によって弾圧されていることをよく知っていて、怒っているからです。

 この状況を少しでも変えなければならない。死なないうちに。だから、これはじぶんが生きることそのものです。

経済学者になるほど「理解できない」

 特に経済学者の誤解ぶりがひどくて、二月の金融学会のカンファレンスでは学者の無理解ぶりに一瞬絶望もしました。

 だって、MMTerが言っていることって真面目に読みさえすれば難しくもなんともない。あれだけ単純なストーリーを、本当はとても頭がよろしいはずの学者たちがぜんぜん理解できない。それはなぜなのか?学問というのはものごとの根本原理を問い続けるものじゃなかったの?

 そのメカニズムがわかったのは最近なんです。それがこのシリーズで表現しようとしている真の主題。

 固まった視点というものは、専門家ほど簡単にはひっくり返らない。専門家であり続けることは視点をひっくり返さない訓練に他ならない。前々回に書いたイデオロギーの問題です。「転倒した間違った観念が社会の主流の思想になり、社会をすごく悪くすることがあり得る」。マルクスが説明した、まさにこのことです。

 どうやら「MMT以外の経済学の枠組み」は、人間社会にとっていちばん大切な価値を「見ないようにする」訓練になっています。

 それは「人が生きていることそのもの価値」のことです。「あなたが生きていることに価値がある」という、このことです。

 MMT「だけ」がこの価値を認めます。じぶん「人びとの生活を保証せよ」といつもいつも書いていますよね。他の経済学派は、口でなんと言おうと理論の中にこの価値が入って「いない」です。まるでトロツキーが消されたソ連の写真のように。

 だから確信を持って断言します。経済学は根本的に間違えています。

ジャパニーズ・イデオロギー

 これに気づいた直後、もっと恐ろしいことに気づくことになりました。経済学者だけでなく、日本語圏ではほとんどの人がこの大切な価値を忘れているのでは?

 そして日本におけるMMTの「わからなさ」はそこにあるのだということが理解できました。

「価値は相対的である」とするジャパニーズ・イデオロギーが日本語圏を支配していたからなんですね。

 ロマンティックMMT−9: 日本の転倒した観念で書いたようにこれはマルクスのイデオロギー論を使っています。

 じぶん、半年前までマルクスを読んだことなかったんですけどね。それなのに、今のじぶんはマルクスに夢中になっています。

 ここに至るには不思議な因縁の連鎖がありました。

「あなたが生きていることに価値がある」

 まず昨年の今頃くらいでしたか。新しい政党を立ち上げ、このセリフを政見放送で言っちゃう人が現れましたよね。この人の登場がきっかけでした。
https://reiwa-shinsengumi.com/activity/851/

 引用します。

私自身が社会問題を真剣に考える初めてのきっかけが災害でした。2011年、 東日本大震災と原発の爆発。生きたいという思いから始まった私の政治のキャリア。でも今、 この国では生きたいとすら思えない人々が多くいます。

1年間の自殺者、 2万人を超え、 未遂だけでも50万人を超える。完全にこの国は壊れています。

あなたは自分が生きていても許される存在だと胸を張って言えますか。あなたは自分がただ生きているだけで価値がある存在だと心から思えますか。あなたは、 困っているときに「助けてほしい」と声を上げられますか。山本太郎からの、この問いにすべて、言える、思える、 できると答えられた人、 どれぐらいいますか。そう多くはないと考えます。

なぜなら、 あなたに何ができるんですか。あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、 社会にまん延してるからです。

だから、そんな社会を、 政治を、 変えたいんです。生きててよかった、そう思える国にしたい。それは無理だと思いますか。

私は思いません。

 これ、にゅんが考えているのと同じじゃないですか\(^o^)/

 社会に虐待されている障碍者も病気の人やその家族たちも、生きていることに価値があるのに。

山本太郎さんと経済学者、そしてマルクス

 ところで、山本さんの近いところには経済学者で大学教授という方がお二方おられます。

 東大教授の安冨歩さんと立命館大教授の松尾匡さん。

 このうちまず松尾さんのことですが、もともとはほとんど存じ上げておらず、知っていたのは数理マルクス経済学を研究されていてリフレ派の人、ということくらいでした。

 2013年に「断言しましょう。大変な好景気がやってきます。バブルを知らない若い世代は、これを見てビビって目を回すでしょう。」と言った人というイメージ。その方がMMTについて変な理解をされる人だなあと受け止めていたわけです。去年の今頃ですね。

 そして昨秋、MMTの創始者ビル・ミッチェル氏が来日した折に、京都でお目にかかることになりました。

 その時点では、関西の方から松尾さんは「闘う労働組合である関西生コンを支援する、とても凄い方」だという話が耳に入ってきていました。ご本人は、最前線で権力と闘うほんとうに尊敬すべき方なのですね。

 ここでマルクスです。

 会食の時に、ミッチェルが「MMTの源流はマルクスだ」と確かに言いました。それが、Nyunがマルクスにほんとうに目覚めるきっかけになりました。

 ちょっと不思議なんです。

 じぶんはこの時代のドイツ語文献が大好きなんです。

 このシリーズでは「MMTをロマン主義的方法で記述していますよ」と謳っているわけですが、18世紀のドイツ語圏の言葉はじぶんの日常。暇さえあれば18世紀ドイツのことを考えるという人間で、ほとんど呼吸をするように読むことができるんです(気持ちとしては)。

 そしてマルクスの書いたものは、ネットで無料で読めます。ドイツ・イデオロギーならこんなふうに。

 というわけで、秋以降、初めてちゃんとマルクスのテキストに真剣に読みました。命がけのつもりです。そのへんの学者とは覚悟が違うわけですよ。語学力の差だけではないんです。

 まあ、これまでマルクスに食指が動かなかったのは、「マルクスは唯物論」と聞いていたからだったのですが、今や夢中です。毎晩どれかを読みながら寝ています\(^o^)/

 読めば読むほど、「ああ、MMTってマルクスだよな」ってなる。ミッチェルの言う通りどんどんシンクロしていきます。

 その一方、松尾さんがいつまでたっても、MMTにシンクロしてくれない。そしえ、どうみても善人なんです。このことがわかりませんでした。

  メールのやりとりも未公開分を含めてずいぶんやったのですが、ダメでした。

 上記の金融学会カンファレンス(2月)のご発表でも、ぜんぜん理解がすすんでおられない。(松尾さんのエッセーにその辺の話が少し書かれていました)

 理由がわからず、その頃じぶんはとても苦しかったです。でも、振り返るとそれが良かったのだからこれがまた不思議で。

「数理マルクス経済学」の見落とし

 2月以降、松尾さんら「数理マルクス」という分野をサーベイしてきました。あの素晴らしいマルクスをどのように読んだらMMTと「つながらなくなる」のかを知ろうと思ったのです。

 その結果「ああこれか!」と悟ることができたのですから。

 この悟りがなかったら、このシリーズを書くことはできなかったわけで。

 彼らは「労働が世界を作っている」と考えに引っ張られ「生きていることに価値がある」ということを見落としたまま理論を組み立てているのですね。

松尾さんの把握

 (図はこちらの論文より引用)

 ここにはイデオロギーが隠れています。

「人びとはいつも平等に、価値ゼロのスタートラインに立っている。」
「ひとの価値は、その人が将来どのくらいの価値を創出するかの見込みで定まる。」

 根本的にそういう世界観「だから」金融緩和や経済成長を「いいもの」と捉えてしまうんです。

 この話、次回以降に詳しく書くつもりです。

(経済学を学んだ人ならここで気づかないとおかしい。たとえば病人の看病をしなければならない人が生活のために就労しなければならない場合における、その就労によって奪われる機会費用のこと。考えたことないでしょう?それがこの世にどれだけあるか考えたこともないでしょう?そこのアナタ。) 

 松尾さんだけの話ではないのです。数理マルクスに限らず、経済学というものが、本質的にいつも見落とすものがこれ。

 ひとは労働の果実で暮らすのではなく、ひとの労働が果実になる。

 そしてこの見落としは経済学に限ったものですらなく、ほとんどの人びとが見落としなんです。そこには膨大な「幸福の損失」があるのです。

 みんな悪気はない。けれど、そうなる。ドイツ・イデオロギーに書かれているのはまさにそういう話だったのですね。

 「生きていることに価値がある」なんて当たり前なことを正面から否定する人はいません。それなのにこの現実社会は、山本太郎さんがそれを「わざわざ」訴えなければならない社会になっている。思考が、学問が、制度が社会に規定されてしまう。

それをジャパニーズ・イデオロギーと言っています。再掲します。

通貨は中央銀行が市場の需要に応じる形で供給している。

通貨の需要は基本的に市場の均衡で定まる。

政府には財政制約がある。

価値は相対的なもので人それぞれである。

価格は市場参加者の均衡で決まる。価格に多様な価値観が織り込まれる。
ひとは賃労働が生み出す価値で生きている。
(または)
ひとの価値は、その人が将来どのくらいの価値を創出するかの見込みで定まる。

人びとはいつも平等に、価値ゼロのスタートラインに立っている。

障碍者や被介護者は社会のコスト。

 松尾さんの話ばかりになってしまいましたが、安冨歩さんにも似たことが言えると思っています。そして安冨さんもまた素晴らしい方だと思います。でも同じ構造なんです。

 こんなんかな?

画像2

  知的労働の価値を国が認める東大教授の安冨先生。民間が認める立命館大学教授の松尾先生。

 この note は意地でも有料にはしない。でも価値はあるよ\(^o^)/

 そして、実は、そういのがJGPの思想なんですよね。

つづく




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