ロマンティックMMT−12: ほんとうの「完全雇用」。ありえた過去、別の未来(JGPの話2)
前回はまた経済学批判みたいな感じになってしまいましたが、JGPの話でした\(^o^)/
JGP、つまり職業保証制度の話を続けましょう。
数理マルクス経済学の話とかは後回し。螺旋階段を登るように真理に近づいていきましょう。
大事なのは「瞬間のイメージ」なのです。
完全雇用のイメージ
完全雇用...
それは「人間が生き生きと生活しているさま」
ロマン主義者にとって、それは古代ローマの庶民の生活です。これは絶対に譲れません。譲ったらロマン主義ではないということになるからです。
でもなんで2000年前の古代ローマ?
良いところに気づいてくださいました\(^o^)/
マルクスが生まれたのは1818年ですが、まさにその頃、欧州の人々の精神に決定的な影響を与えていた大事業、それが古代ローマ遺跡の発掘です。なんといってもポンペイ遺跡の「発見と発掘」。
これがどれだけすごい事件なのか、どうか想像してください。
日本なら弥生時代の街が見つかって、人びとの生活がそっくりそのまま掘り出された。人体模型付きで「出現」する事態を。
そして、そこの人びとは、どうみても今の人びとよりはるかに生き生きと暮らしていて、楽しそうで、しかも途方もない文化が!
だからヨーロッパじゅうが大騒ぎになったのです。庶民も知識人も王族も、皆が皆、このことをすごい関心をもって話題にしていた!
世界史上でこれ以上に大人数が長期間に渡ってわくわくしたイベントって他にあるんですかね?毎日がオリンピック!であるかのような。
当然の成り行きでイタリア旅行が流行りました。とても有名な作曲家モーツアルト(1748-1791)はその長くはない生涯で三度のイタリア旅行をしています。とても有名な作家ゲーテ(1749-1832)は政治や恋愛の問題で陥った精神的危機を打開するために、一年半に渡るイタリア旅行を決行し、これによって作家として大化けしました。
政治的にはブルボン王朝の時代からフランス革命、ナポレオンの登場、産業革命の時代ですよ!
だからマルクスやマルクスに先行する哲学者たちも、影響受けまくり!だいたいにしてマルクスの学位論文は「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」...
というわけで「理想」の話です。
「理想」ってそんなに大仰なものでもなくて、高校で「理想気体」とか習う、あれなんですけどね。
その瞬間の価値
ゲーテたちの時代、人びとは古代ローマに一つの理想のようなものを見ました。ある人は円形劇場などの計算された構築物に、ある人は,人びとの生き生きした生活ぶりに。
その瞬間が切り取られていたのですから!
MMTやJGPの話は、こうした「社会の理想状態」のことを意識しないで理解することはできません。一枚の絵のように、瞬間的な様子を捉えたイメージを持つ必要があります。
瞬間のイメージ。これは決定的に重要なことです。
MMTについてこんなことを言う人がいます。
「MMTは会計的事実を言っているだけで、JGPとか切り離して事実だけ利用すればいいんよ」
こうした理解は、決定的にダメなのです。こういうことをおっしゃる経済学者や経済マニアの人たちは、みんなGDPの成長やインフレの話ばかりをしますよね。
気が付いていますか?
GDP成長やインフレ。それらは「ある時点」から「ある時点」に至る「何かの変化」を捉える概念(フロー概念)です。
そうしたフロー概念でイメージできるのは「どのくらい変化したか」だけなんです。インフレに至っては、人の価値を「見ないで」物の価値「だけ」を見ようとするわけですよね。
物価の話が好きな人って、いったい何を考えているのでしょうか\(^o^)/
フローもいいけど、瞬間を!今はどこにいっちゃうの?
まあ、元はと言えば経済学「が」間違っているんですよね。
そう、マルクスが詳しく書いたそのまま、イデオロギーによる洗脳です。
このシリーズでは、その洗脳の内容をジャパニーズ・イデオロギーと呼び、次のように定義しました。
通貨は中央銀行が市場の需要に応じる形で供給している。
通貨の需要は基本的に市場の均衡で定まる。
政府には財政制約がある。
価値は相対的なもので人それぞれである。
価格は市場参加者の均衡で決まる。価格に多様な価値観が織り込まれる。
ひとは賃労働が生み出す価値で生きている。
(または)
ひとの価値は、その人が将来どのくらいの価値を創出するかの見込みで定まる。
人びとはいつも平等に、価値ゼロのスタートラインに立っている。
障碍者や被介護者は社会のコスト。
これを会計的に表現すると、一生懸命に「フローだけ」のことを考えるけれど、貸借対照表的な価値(ストック概念)を意地でも見ないぞ!~というイデオロギーだということになります。
だめですよね。
フローよりも社会的諸関係がまず大事です。「社会的諸関係」というのもこのシリーズのキーワード。マルクスもこればっかですし。
だって強い者がどんどん強くなり、弱い者が叩かれまくっているじゃないですか!
そしてストックを見ること、瞬間を見ることで捉えられるのが「価値」に他なりません。
誰が強くて、誰が弱いのか?それはどうしてか?
言ってみれば経済学とは、今の人の価値を「絶対に評価せず」に、意地でも将来の生産物の価値「だけ」を、生産様式そのものを「何が何でも固定して」評価しようとする枠組みになっています。パラノイア的思考。
この狂ったパラノイア的思考によって完全な盲点になるのが、人びとの価値、しかも「今の人びと」の価値です。純粋に「生産性(=将来カネになりそうか)の高い人が金持ちになり、生産性の低い人が貧しくなる」という「価値基準」だけになってしまう。
これだから今のこの国ではほとんど全員が苦しいし、今の生産様式に「たまたま」合わない人たちは、毎日文字どおり虐待されているんですよ。パラノイアになれないADHD体質の人は「障碍」とされますしね。
氷山に全力でまっすぐ向かうタイタニック、ジャパン
今の価値を評価せずできもしないフローの拡大に熱中するジャパンは、まるですでに沈み始めているタイタニック号がまっすぐに氷山にぶつかるように針路を調整しながらみんなで頑張っているように見えるんですよね。
経済学は、船体の大穴をあえて見ないようにしつつ、わざわざ破滅に針路を合わせ破滅への速度を加速せよという「狂気の危険思想」に見えます。
だからわたしたちは、まずは針路を変え、船体の穴を埋める必要があります。せめてスピードを緩めさせましょう。
生き続けたいのなら。
わたしたちの今の価値?
間に合わないことはないと思うんですよね。
経済学という狂気を追放して、べつの見方を取れるようになりさえすれば。
経済学は無視するのでなく、潰さなければなりません。
これは、SNSで知り合った「じじい通信」さんが Twitter のヘッダ画像に使われている浮世絵。
江戸時代だって、人は生き生きと生きていたわけで。
じじい通信さんはプロフィールに、こう書かれています。
「眺めてると人間が大好きになる。殿様も貧乏侍も、女も男も母も子も。行商人も、障害者も健常者も。」
感覚として、Full employment (完全雇用)はこの絵のような状態ですね。
ごくふつうに考える「完全雇用」
もしかして皆さんは「完全雇用」という言葉で別のイメージを持っていませんでしたか?だとすれば、それがジャパニーズ・イデオロギーに頭が占領されているということなんです。
経済学「が」洗脳装置。
「完全雇用」の世界が実現するためには生活所得が必要です。わたしたち一人一人が、それぞれに生きている状態のはずですから(江戸時代の日本より古代ローマの人びと、ポンペイの人びとのイメージがいいんですけどね~!それはまたいつか)
働きたいのに働けない失業者が一人も存在しないのはあたりまえです。そのうえで、仕事に満足していないワープアも「一人たりとも」存在しないということです。
もしイメージの中にたとえば「ああ、この仕事をやっている今、別のあれができたらいいな」と考えている人がいて、もしそれをした方が本人を含めた社会全体の幸福が増えるような状態であれば、それさえも「完全」ではないですよね?
だから、MMTはこう言うわけです。
「完全雇用状態でないなら、政府はできることをやっていない。」
状態、つまり瞬間の話であることに注意してください。
でもそう言うと「そんな状態あり得ない!」っていう人いそうですね。
そうです、ありえませんよ?そりゃそうです。
科学でいう「理想気体」や「完全弾性体」と同じ「概念」ですからね。現実には決して「到達できないもの」に決まってるじゃないですか\(^o^)/
JGPの考え方
前回のこの図。
尊敬すべきお二人の聖なる大先生のすぐ下に雑種犬を描きました。
左上、安冨先生は「国立」東京大学の教授。その仕事の価値を公的機関である東京大学が認め、そのしるしに一定の給与を支払っています。
右上、松尾先生は「私立」立命館大学の教授。その仕事の価値を民間機関である立命館大学が認め、そのしるしに一定の給与を支払っています。
では犬は?
じぶんは、普通に、この犬が生きていることに価値があると思っています。
この犬を飼っている人は、どうやらワープアです。
なんでも「その人」はマルクスを読み始めて一年たっていないのですが、上の二人よりはるかにマルクスのことを質量ともに多く読んでいます。ドイツ語の文をわざわざ日本語訳とか英語訳で読もうなんて考えないそうです。翻訳に頼ると誤読するらしく。
そして「その人」はだからこそ、マルクスの後継を自認するビル・ミッチェルの言っていることを経済学者よりは正確に、はるかに高いレベルで人びとに説明することができる...
...できる
...できる?
...できるかもしれないじゃないですか~\(^o^)/
ここです。「かもしれない」。
もし「その人」にそんな能力が「あるとすれば」。
そして「その人」が生活のためのワープア労働をしている時間に大学で講義をしたり、講演を打ったりして経済学を再建しちゃったりするかもしれないじゃないですか\(^o^)/
お気づきでしょうか。これは「けいざいがく」の言葉でいえば、「人が現行の生産様式に縛られることによって奪われている膨大な機会費用」の話です。その話をこそしたいのです。
MMTが強調するのはまさにそこで。
生産様式を「変えない」ことで失われ続ける価値
いまこの国では、すごくたくさんの人が「所得が必要」であるために「ほんとうは、特にやりたい仕事ではないけれど、生活のために仕方なくする仕事」にかなりの時間を取られています。
いったいわたしたちは何をしているのでしょう。
毎日毎日この国で、どれだけの量の「ありえた価値」が失われているか、考えたことがありますか?あなたは満足に働いているのですか?
氷山にぶつかりに行く「今の様式」がどれだけとんでもないものか、考えてみませんか?
お上が決める生産様式
昨日ラジオを流していたら、政権の偉い人がこんな趣旨のことを言っていました。
「観光需要はまもなく戻るだろうと確信している。政権としてはしっかりとこれを支えて、新しい生活様式で...」
マルクスが指摘したのはこういうことなんです。
社会の方向性の決定を一握りの数の「支配者」にゆだねると、社会の生産様式が支配層に都合がよい方向に規定されてしまう。制度も文化も教育までもが!
システムがシステム自体を強化する。(五七五)
Arbeit :目的のある作業
マルクスは、労働(Arbeit)が世界を作っていると言ったといわれています。
Arbeit って「労働」と訳されますが「目的のある作業」のことです。
だから「目的を伴った作業に価値がある」と読みましょう。
すべての価値は「目的を伴った作業」の産物だというわけですね。
いわゆる「労働価値説」。
その価値が資本家によって「搾取」されるのだと。
Arbeitを狭く考えると、わたしたちが搾取されているのは、たかだか「賃労働が増やした価値のうち資本家が利潤として得るもの」だけということになってしまう。
そうではなく、奪われているのは「ありえたはずの別の未来」なんです。それが搾取された価値。とんでもない話なんです。
(さらにたどるとラテン語の「urbs(urbis)」から来ていて、その与格「Urbi」は、たとえばローマ法王が世界に勅令を出すときに「ウルビ・エト・オルビ(Urbi et Orbi)」みたいにやる。「完全球体」のイメージがあるんです。これはまたとても面白い話なんですけどこのくらいで)
人間の「疎外」のこと
マルクスの話でよく出てくる、この疎外(Entfremdung)。これは、まあ、「あるものから生じたものが、そこから離れて、生じた元と対立ずること」です。
賃金を得るためにという目的と作業が人間から分離し、そこで生産された「モノ」が資本となって何とまあ人間と対立するという構図。
これはまさに Entfremdung です。
では、いまのこの地獄のような資本主義という生産様式において、人間の価値を取り戻すためにはどうすればいいのでしょうか。疎外を最小にするためにはどうすれば?
それをMMTは尋ねているのです。
「生活所得を保証せよ、ってなるんじゃないですか?」
「そのための制度はJGPってことになるんじゃないですか?」
そう言っているわけです。
え?
「JGPは切り離してMMTを利用する」
ですって?
じゃあ、あなた、ぜひ教えてくださいよ。あなたが考える「もっといい方法」というやつを。
こういう人もさあ..
まあ、そんなことよりYahoo知恵袋!
本家MMTと日本版MMTと区別される方達がいらっしゃるようですが、その違いは、どこにあるのでしょうか?
今回ここまで読んでくださった方は、この ric******** さんの説明が今までとは別の形で理解できるようになる...といいんですけど。
(あれですね。リッキーさんってずっとカネ取らない.ですごいことしてる..)
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