見出し画像

「マルクスの貨幣論」の前に「経済学は間違いです」(補論その3)

「天才マルクスの貨幣論とMMT」というシリーズを、下のイマージの全三回シリーズで書こうとしています。

第一回(プロローグ)
第二回(本論)
第三回(発展)

 第二回を書く前に、マルクスがひっくり返した相手であるヘーゲルの論理を説明しなければ、ということで二つの「補論」を入れました。二つでいいかと思ったのですが、急遽「補論3」を追加します。

 だからこういうことになりますのでよろしくお願いします!

タイトル:「天才マルクスの貨幣論とMMT」
 第一回(プロローグ
  ヘーゲルに関する補論1
  ヘーゲルに関する補論2
  いまここ!
 第二回(本論)
 第三回(発展)

 というのも、前回の補論2に対してお二方から興味深いレスポンスをいただきまして。

「理解力」とか「説明力」などをめぐって

 かるかろどんさんの「すみません」、次郎三郎さんの「私の自己観察能力」、このようなパターン。

 お二人がおっしゃることをわたくし nyun は理解できたと思います。

 でも、たぶんですが、これらの文をドイツ語や英語などゲルマン系言語の言葉に翻訳してそれらが母語の人たちに読ませると「意味がわからない」という反応になると予想します。

 翻訳の技術もありますが、わかりませんでした、わかりました、を過去形のまま訳したりしようものならますます「???」っとなるはずです。

 だから考えてみたら、もしあんなに抽象的は話が「すんなりわかった!」となったらその人は天才か、あるいは誤解している可能性が高かったりして。

 関連して、先日ある本のことをアメブロで書いたのがこちら。

 ぜひこちらも目を通してほしいのですが、紹介した渡邉雅子さんの本は、言語圏ごとに論理的文章のパラグラフの並べ方が異なっていて、そのために思いもよらない「伝わらなさ」が生じるという議論でした。

 あちらでも引用したのですが、こういう話です。

たとえば日本人留学生がアメリカの大学で小論文を書いたり、同じ西洋圏でもアメリカ人学生がフランスに留学して小論文を書いたりする時、非常に低い評価を受けたり、時には「理解不能」として突き返されたりすることが起こる。これは...各国の「書く型」の違いが「論理の型」の違いを生むために起こる文化的な衝突を示している。しかし「論理的であること」を単に証拠を示すこと、あるいは帰納や演繹、因果律を使って説明することだと受け止めると、この衝突は原因が全く見えないまま、能力の高低の問題にすり替えられてしまう

 能力の違いでない、ということなんです。

 しかし、わたくしは渡邉も気楽すぎるように感じています。

論理より前に言語が違う

 渡邉はこう主張するわけですが、、、

「書く型」の違いが「論理の型」の違いを生む

 ほんとうにそうでしょうか?

 あとがきによると、渡邉がそう思ったのはご自身の体験から来ていると。そこを引用します(強調はわたくし)。

 〈論理的〉であることが文化的かつ社会的な現象であると知ったのは、アメリカの大学でエッセイの試験を受けた時だった。最初に提出したエッセイは「評価不能(ungradable)」と記されていた。その後どのように工夫して書いても「説明せよ」のコメントが繰り返されるばかりで途方に暮れていた時、エッセイの書き方を教わった。その時はじめてエッセイが日本の作文とは全く異なる構造を持つことを知り、型通りに書くと評価は三段跳びによくなった。
 エッセイの構造で書くと、不可欠だと思っていた情報が不要になり、主張のポイントも変わった。何より、小論文の書き方の「スタイル」が答えの「正・誤」に影響を与え、「できる・できない学生」を決め、ものの考え方や価値観までをも変える不思議な体験をした。この強烈な体験が、その後三〇年以上にわたって、〈論理的〉であることは何に起因するのかを研究していくきっかけとなった。

 強調した箇所に、わたしはびっくりします。だって「不可欠だと思っていた情報」を伝えることをやめ「主張のポイント」が変わったならば、それはもはや同じ主張ではないですよね。

 日本語でのわかりやすい主張とは別に、英語母語の人にわかりやすい別の主張を行ったっていうことじゃないですか。

 目的が「良い成績をとる」ことだったり「海外の人と上手にコミュニケーションできるようになる」であればもちろんこの考えは有効です。

 しかし、論理内容を翻訳することに成功しているわけではない。

 だから【「書く型」の違いが「論理の型」の違いを生む】という結論の論証になっていないわけです。

 これは逆で、こう言うべきだと思うんですよー

nyun 仮説:「言語の論理の型」が「書き言葉」や「話し言葉」に現れる

西洋の論理の原型:アリストテレスの論理学

 ヨーロッパの人々が説得力を感じるのは何といってもアリストテレスの「論理学」の形式です。

 文の形態には四種類あって、ラテン語の肯定”affirm”、否定”nego” の母音から、形態別に名前を付けて次のような記号が付けられる。

記号  名称      形態        
A  全称肯定  すべてのSはPである("All S are P")
E  全称否定  すべてのSはPでない("No S are E")
I  特称肯定  あるSはPである("Some S are P")
O  特称否定  あるSはPでない("Some S are not P")

 ここで重要な働きをしているのはラテン語の縛位詞(英語のBe動詞)と関係詞(ここでは all, no, some)。

「定言的三段論法」を例にすると、こう。

大前提:全ての人間は死すべきものである。(All humans are mortal.)
小前提:すべてのギリシャ人は人間である。(All Greeks are humans.)
結論:すべてのギリシャ人はは死すべきものである。(All Greeks are mortal.)

 この結論は、なるほど言われてみれば確かに正しいですよね。

 でも。

 日本語が母語のみなさん、「全ての人間は死すべきものである。」なーんて言葉を普通に使ってますか?

 アリストテレスは、日常の言葉を起点して、説得力があるものを抽象化して分類整理した。

 だからギリシャ語で生活している人はアリストテレスの分類を「確かにそうだ\(^o^)/」と思う。

 そして、同じ縛位詞(英語のBe動詞)と関係詞の系統を日常的に使っている言語の人たち、つまり英語とかドイツ語を日常的に使っている人も同じようにその言語に翻訳された「アリストテレスの論理学」は「確かにそうだ\(^o^)/」とごく自然に思う。

 それ以外の論理を考えることが、なかなかできない。

たとえば、主語がない言語

 一例として、前回紹介したH知事の就任のスピーチ。

 「今ここで本当に無駄なものを省いてください」

画像1

「それは府民のためにもなるし、皆さんの仕事にもつながる」

画像2

「こんな府庁だったら勤めている意味ないですよ」

画像3

 これって、日本語を解する私たちにはよく意味が分かる。

 けれど、その意味(ニュアンスまでを含んだ意味)を海外の人に伝えるのはほとんど不可能だと自分は思います。

 通訳の達人は、渡邊がアメリカでやったように「不可欠だと思っていた情報を省いたり、主張のポイントも変える」ことによって、論理を再構成するのです。

 ひっきょう通訳という行為とはそうする以外にないものなのであって、そこに上手と下手の差も出る。

 そして。

 たとえば英語に通訳した言葉に同じような「英語の説得力」を出せたとしても、知事が意図した意味内容が表現できたとは言えない。

大石あきこさんの橋本批判

 H氏の運命の論敵?である大石さんはH氏の論法から見事にパターンを抽出しておられて、ときどきそれを具体的使って分析してみせてくれます。

 この①~⑤の抽象化はアリストテレス的な分析で、「論理的」にはおっしゃる通り\(^o^)/

 問題は、日本人がしばしばアリストテレスのような論理的思考をしないことの方なのでしょうね。

 わたくしの印象では、日本の政治では「最初の断言」がとても重要。

 だから日本の権力者は、政治家自身の言葉だけでなく、マスコミやネットやメディアを総動員して「最初のスローガン」を意識にビルトインしようとする。

 与党も野党もそれをやる。

「経世済民!」とか「自民党をぶっこうわす!」とか。

 明治維新のときからずーっと、だいたいそんな感じです。

 だからわたくしは、マルクスに学んだ絶対に正しい結論をいつも最初に言うようにしています。

「経済学は間違いなのです」

ってね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?