MMTにおける「税がマネーを動かす」ビューの論理(レイ本の第7章)II、もしくは世界金融危機の予言
(2024/7/14 追記)
"money" の訳語を「貨幣」から「マネー」、”fiat money” の訳語を「不換紙幣」から「フィアットマネー」に変更した(政府が額面価値を定めるマネーという意味)。
その事情はこちら(「貨幣」概念に問題あり?という話)に書いた通り、「貨幣」はマネーの良い訳語だと考えなくなったからです。
また”fiat money” に対する「不換紙幣」という訳語は不適切であるという話はこちら(本書冒頭の”定義”の抄訳もあるのでご参照ください)で行っています。
(追記ここまで)
レイ『現代マネーを理解する:完全雇用と物価安定への鍵』(Understanding Modern Money: The Key to Full Employment and Price Stability)2006年版における、第七章「税がマネーを動かす」ビューの論理(The Logic of Taxes-Drive-Money View )の個所のゲリラ訳と解題、その二回目。
十回くらいになりそうなのでマガジンにまとめていこうと思います。
今回の説明
前回は第七章の6番目の節にあたる、「銀行の発達(develop of banking)」節の冒頭までで終えました。
今回はその繰り返しも含めて、この第6節だけを読んでいきます。
そもそもこの章は「税がマネーを動かすというビュー」を提示する一般モデルの記述であって、個々の歴史的事実をそのままなぞる主旨ではないことを思い出してください。
だって何しろこの政府はいきなり紙幣を印刷していましたよね。歴史的にはそんなはずはないわけで、それは誰でもわかることだと思うのですが、しかし前回批判した楊枝嗣朗がこのことを読み取れていなかったので、念のため。
とは言えレイも述べていたように、このモデルは多くの歴史に当てはまりますよねと主張をしているのです。だから読み手の思考が試される。
また本節はこの章の、従ってモデルの要に位置します。タイトルの通り、ある原理に基づいて銀行がモデルの中で文字通り「発達」します。
物理の分子流体モデル的に考える
今回これを再読して、強く思ったのが物理や化学の分子モデルとの類似です。
近代経済学はしばしば「合理的個人」の集合を仮定し、それが批判もされました。マルクスの社会モデルも、やはり近代的な自由で私有財産を持つ個人の集合として考えらています。
ここにおけるレイのモデルは、自己の利益や蓄積への欲求がまったくない諸個人が想定されていると言えるでしょう。彼らは税によって動かされ、税によって銀行が作られ、巨大なシステムに発達するのです。
以下今回は、第6節を翻訳しながら段落ごとに自分の注釈を挟みます。
翻訳に注釈を入れるのは本意ではないのですが、楊枝のような読み方をしてしまう人が実際にいるから。。。というのが理由の一つですが、物理の分子モデルとの比較についてもちょこっと述べてみたく。
前回の話を振り返ると、そうした利益への欲望のない分子たちが、徴税と政府支出によって「超過の分子たち」と「不足の分子たち」の二極に分裂するさまが表現されていたと言えます。
二点指摘しておきたいのですが、第一に、この分裂はグラデーションを伴うもので、正規分布のような分裂が想定されている感じです。
分布の中央値がゼロよりも右になっていますが、これは、さすがに政府は納税義務額を支出額以上にはしないだろうと考えたからですが、当然さまざまなケースを想定することが可能ですよね。
中央値をどこにイメージするにせよ、このモデルの背後にはこのような正規分布的なイメージがあるようにワタクシには思われます。
一つ重要なこととして、政府が出現する前の社会には、この分布は世界に存在しないということを指摘しておきましょう。つまり横軸の指標はいわゆる「貧富の差」とはまったく関係がありません。
つまり、ある分子が財宝や奴隷を所有しているとしても、ドルを持っていなければその分子は「不足の民」側になるんですね。
ちょっと面白くないですか?
では、始めましょう。
銀行の発達(develop of banking)
[段落1]
【訳注:
この原理をよく理解しよう。ここにおいて税が「不足の家計」に負債の発行を余儀なくさせている。また、ここにおける金利の設定メカニズムも重要で、ここで銀行家や超過家計は利益や利潤を求めて行動する主体ではなく、税に動かされる主体として記述されており、以降この方針(利益追求主体を登場させない)は一貫している。周知のようにマルクスは、利子を剰余価値の現象形態だと分析したが、その論理ととこのモデルはどのようにかかわるのかをワタクシとしては考えていきたい(余談)。
ところでワタクシの分子モデル的に考えるとこんな感じだ。
X氏は、納税義務に悩んでいる人なので、結構左の方の人だろう。重要なのはそのような分子が必ず存在するということ。
Y氏は、結構右の方の人ではないか。そのような分子もおそらく存在するはずである。この分布を想定していれば自然な推論だ。
では、融資後の二人の位置はどうなるだろうか。
こんな感じであろう。
この融資によってX氏が納税義務を果たすのに必要なドルを得たのであれば、ポジションが0に移動したということだ。
Y氏はどうかと言えば、X氏が右に移動したのとまったく同じだけ、左に移動している。
さて、次段落では同じ原理に基づいて銀行家が出現することで「銀行」業が始まり発達していく。くどいようだがここの銀行業の目的も利潤の獲得ではなく、必要な税の支払い手段を得るためである。】
[段落2]
【訳注:銀行が仲介する「資金超過の家計」からの預金と「資金不足の家計」への貸し出しの満期が一致しているならば、預金を全額を貸し出すことができ、このとき預金は全額が「準備」されている。対して、満期のない要求払い預金を銀行家が受け入れるようになるとこれはできなくなる。だから「『部分』準備」と呼ぶ。
さて分子モデルであるが、最初に登場した貸し借りを仲介する銀行家は、分布のどこにいる人だろうか?
レイの答えはおそらく「どこでも構わない」であろう。このモデルの住民たちにとっても銀行家(B)はどこに居てもいいはずだ。
図の取引が成立すればよいのだから。
問題は金利だ。銀行家Bは、Xからは金利を受け取り、Yには金利を支払わなけらばならない。だから前者の金利の方が後者の金利よりもかならず大きくなるように設定される。
銀行家Bのポジションはこの金利の取引によって右にシフトしていく。
対して、要求払い預金を受け入れる「銀行」はどうだろうか。答えは「必ず超過の民でなけらばならない」。そうでなければ預金者からの引き出し要求に対応することが不可能だからだ。
次の段落では、同じ原理に基づいて[銀行の銀行業]が興り発達する。】
[段落3]
【訳注:はじめは「資金超過の家計」が銀行家となり、政府のドル紙幣を貸すだけだった。融資は「最初の借り手」であった資金不足家計の信用を担保にした貸し出しに始まり、最終的には銀行が、自分自身の信用を担保にした貸出しをするようになった。繰り返しだが、こうした「発達」が、節タイトルの「DEVELOPMENT OF BANKING」の意味である。
ところで分子モデルで見たときに「マネーセンター」銀行はどのあたりの分子だろうか?
レイはこう書いている。
『このうち比較的大きな銀行は「マネーセンター」として他の小さな諸銀行に準備金の保有を提供することに特化することができる』
「比較的大きな銀行」というは、諸銀行の中でも、右の方のポジションにいた銀行であるはずだ。そうでなければ、諸銀行にドルを貸し出すことはできない。
マネーセンターおよび諸銀行の、ワタクシの最終的な分子イメージはこうである。諸銀行は不足側に陥ることがないようにマネーセンター銀行が中心になって、システムの圏内にいる銀行がすべて超過側にあるようにコントロールされるというわけだ。
本文の話に戻って、「ある超過の家計」から「ある不足の家計」への貸し出しで始まった融資の発達が水平的、横方向の発達であるとすれば、次の段落では垂直的、縦方向の発達が記述される。いわば「銀行の銀行の銀行」となるだろう。もちろん利益を目的とした主体は登場しない。】
[段落4]
【訳注:読み取れると思うが、「中央清算銀行」と「マネーセンター銀行」の関係は、「マネーセンター銀行」と「コミュニティ銀行」との関係と同じものであり、「コミュニティ銀行」と「資金超過家計」の関係とも同じである。
つまり、「中央清算銀行」>「マネーセンター銀行」>「コミュ二ティ銀行」>「資金超過家計」という構図であるが、この構造の全体が税の支払い手段である政府の紙幣を巡って、利益の追求ではなく、システムの安定のために勃興し、発達するのである。
なお giro の語源は Wikipedia の説明によるとサイクル、循環を意味するギリシャ語の gyros だそうである。
さて、分子モデルだが「中央清算銀行」まで含めた giro システムを記述するのは面倒なのでここではやめておく。ただ、ドルと銀行券、さらには預金が等価物と見なされるようになったとしても、あらゆる銀行は決して「不足の民」に陥ることは許されないということを指摘するに留める。】
[段落5]
【訳注:訳注は不要であろう。この原理はやはり利潤でなく、納税システムの安定だ。しかしここまで来ても段落3の冒頭に書かれた部分預金システムのリスクがなくなったわけではなく、むしろリスクが巨大化していることに注意。そのリスクが顕在化するのが「破壊的な金融危機」である。いわゆるミンスキー・モーメントであるが、この本の初版が書かれたのは1998年であり、この第二版の出版も2006年と、世界金融危機(2007年-2010年)の直前なのである。】
[段落6]
【訳注:この銀行の発達(develop of banking)の節、ここまで。圧巻だった思う。くどいが、これは実際の歴史の記述として書かれたものではなくて一般的モデル、しかも動的なモデルであることがわかる。そしてそれがこの現実の歴史に当てはまる。
以上でこの節は終了。
次節以降では、ここまでの理解、同じ原理に基づいて金融政策が分析され、政府と中央銀行の役割分けが論じられることになります。
それでははまた、そのうちに!
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