見出し画像

第19回 「AとBの関係は、CとDの関係と同じである」という論理

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の第19回。 

 今回は前回の予告通り、verhalten、正確には sich  verhalten で「関係する」という意味を出す言葉について語ります。

 これは重要\(^o^)/

 なお、資本論で verhalten が最初に登場するのは、第一章第一節のここ(データベースの No.84)ですが、一緒にワタクシの現時点の訳も記して引用しておきます。

Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit.
ある特定の商品の価値が、他の異なる商品それぞれと関係する仕方は、その商品の生産に求められる(必須の)労働時間が、他の異なる商品おのおのの生産のために求められる(必須の)労働時間と関係する仕方と同じである。

 ここでワタクシが「関係している」としている語は、たとえば岩波文庫版だと数学ぽく「比」となっていたり

一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間の比に等しい。

 中山訳ではさらに数学ぽく「比率」としたりしています。

ある商品の価値の比率は、その商品の生産に必要な労働時間の長さと、別の商品の生産に必要な労働時間の長さの比率と一致する。

 ワタクシは、ここではまだ「比」とか「比率」という数学ぽい訳語を使いたくない、使わないほうがいいと思っていて、これを考えれば考えるほどに、資本論の論理展開はそうしないと伝わらないのでは?とすら思えてなりません。


 まあ、まずは sich verhalten の解説に行ってみましょう。

A is to B what C is to D 構文

 英語にこんな構文がありますよね。

A is to B what C is to D
「AとBの関係は、CとDの関係と同じである」

 たとえば

Reading is to the mind what food is to the body.
読書の精神に対する関係は、食物の肉体に対する関係と同じである。

 これがドイツ語で言うと、こうです。

A verhält sich zu B, wie C zu D.

 

 verhält は verhalten の三人称単数現在形。

 この動詞が sich という再帰代名詞とセットで「(主語Aが)振る舞う、態度をとる」という意味になる 。

 さらに wie …(~のように)とセットで、「(主語Aが)~のように振る舞う(~のような態度をとる)」となる。

 上の例文はそれゆえ「読書の精神に対する振る舞いは、食物の肉体に対する振る舞いと同じである」という感じで、「読書の精神に対する関係」と訳される。

 日本語感覚の場合、意思を持たない無生物が「振る舞う」と言うのは違和感があるので「関係」の方が座りがよいのはあるでしょう。

 ただ科学の文脈ではこれ(無生物に「振る舞い」という言葉を使う表現)普通の表現で、たとえば「分子の振る舞い」の「振る舞い」は Verhalten ( verhalten の名詞化)でOKです。

 なお当該箇所の Moore の英訳版はこうです。

The value of one commodity is to the value of any other, as the labour time necessary for the production of the one is to that necessary for the production of the other.

 A is to B,  as C is to D という形です。

 おや、やはり proportion とか rate というような言い方をしていない。

 さて、英語も同じですが、この構文は一方で

 A:B= C:D

 という比例式の言語表現でもあります。

 A:B= C:D という表現が、日本語で「A対Bは、C対D」と読まれるように、ドイツ語では「A verhält sich zu B, wie  C zu D」と読まれる。

 おお、まさに今のこの文↑もこの構文ですね(わかりますか?)

 こんな感じ。

 こんな時、ドイツ語だと

 「読書」は「精神」に対して、「食物」が「肉体」に対するのと同じように sich verhalten する

 という表現になっていて、日本語にするのが難しいのですが、「と同じように振る舞う」「同じ態度を取る」「同じ関係の仕方をする」というように訳すしかないことが多々あります。

数学の比例ではない、そもそもの sich verhalten

 なにしろドイツ語の「A verhält sich zu B, wie  C zu D」を日本語の「A対Bは、C対D」と訳すと、これが相当違ってくることがある。

 日本語の「A対Bは、C対D」という言い方って、ほとんど数学の形式的表現でしか出てこないでしょう?

 でもドイツ語の「A verhält sich zu B, wie  C zu D」はもっと一般的に使われる、しかも哲学的にすごく重要な表現です。
 読書と精神は比例するわけではないですからね(笑

 ネットで見つけたカジュアルな例を一つ。

 「オンラインIQテスト」というサイトだそうで、そのうちのあるセクションです。
https://www.ausbildungspark.com/einstellungstest/iq-test/

In diesem Abschnitt erhalten Sie zu jeder Aufgabe zwei analog aufgebaute Wortgleichungen: Ein Begriff verhält sich zum zweiten wie der dritte zum vierten. Welches Wort fehlt?
このセクションでは、タスクごとに 2 つの類似した単語の方程式が表示されます。第一の項の二番目の項との関係は、三番目の項の四番目の項に対する関係と同じです。欠けている項の単語を選びなさい。

 このセクションの問題四を見てみます。こんな形をしている。

Auge : blind wie Ohr : ?

 Auge は「目」、blind は「盲目」、Ohr は「耳」。
 wie は、英語の like のように「~のような」を表します。

「目 : 盲目 」「耳:?」のようなものだ。

 さてではこの「?」には何が入るかを選んでくださいという問題。

 図にするとこういうことになりますが、こういうのが sich verhalten の意味です!

 哲学の文でもやってみましょう。

哲学の事例(スピノザの「エチカ」より)

 スピノザの「エチカ」のドイツ語翻訳版と、日本語訳(畠中)を並べます。

… Wille und Verstand zur Natur Gottes sich verhalten wie Bewegung und Ruhe und überhaupt wie alles Natürliche, welches zum Existieren und Wirken auf gewisse Weise von Gott bestimmt werden muß.
…意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物が神に対する関係と同様である

スピノザ「エチカ」の独訳と和訳から

Der Wille gehört darum zur Natur Gottes nicht mehr als alles übrige Natürliche, vielmehr verhält er sich zu ihr geradeso wie Bewegung und Ruhe und alles übrige, welches, wie ich gezeigt habe, aus der Notwendigkeit der göttlichen Natur folgt und von ihr zum Existieren und Wirken auf gewisse Weise bestimmt wird.
ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まったく同様な関係に立っているのである。

スピノザ「エチカ」の独訳と和訳から

 この「A verhält sich zu B, wie C」も図にしましょう。

エチカの図解


 あともう一つだけ。
 例によって気体の科学で sich verhalten の「感じ」を語ってみましょう。

「AとBの関係は、CとDの関係と同じである」と気体の科学

 第14回でボイルの実験の話をしました。

 このエントリで説明したボイルのJ字管の実験において、ボイルが実験計画するにあたって推論したことを sich verhalten で表してみましょう。

 こうです。

 ボイルは、推論によって上図の予測を立て、次に実験を行って、1/2圧縮空気は、ばねと同じように二倍相当の力と実際に釣り合うということを、水銀を使って実証したということになる。

 さあ、ここまでで sich verhalten の「感じ」(A verhält sich zu B, wie C zu D) という構文の「感じ」はだんだんイメージできてきたのではないでしょうか。

 さて最後、いよいよ資本論の文に戻りましょう。

資本論の文の図解

 冒頭に引用した資本論の箇所を、もう一度引用しましょう。

Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit.
ある特定の商品の価値が、他の異なる商品それぞれと関係する仕方は、その商品の生産に求められる(必須の)労働時間が、他の異なる商品おのおのの生産のために求められる(必須の)労働時間と関係する仕方と同じである。

 図にします。

 また今の上のこの図はある一商品と、別の一商品の関係の図ですが、zum Wert jeder andren Ware(それぞれの他の商品の価値に対して)の意味をもっとちゃんと表現すると、下になるでしょう。

 圧倒されます。
 これこそ科学の思考。

「労働価値説」のこと

 何度も書いているように、ワタクシが資本論に出会ったのはそこそこ年齢を重ねてからのことだったのですが、それまでのワタクシはといえば経済学の「労働価値説」という言葉は知っていたものの、それはたとえば「効用価値説」などと同列の、選択可能な、論者のスタンスの問題であり、価格理論一般において労働という一商品を中心に置く必然性は別にないとも思っていたのです。
 マルクス経済学でない経済学はすべてそのような把握をしていると言えるでしょう。

 しかし。

 この資本論第一章第一節の論証は、一読してそういうレベルではない、「とてつもない」ものでした。

 この論理をいったん理解した人は「労働価値”説”」という、これを相対化するような表現は妥当ではないと思わなくならないとおかしい。

 大哲学者ホッブズはその時代、ボイルが空気の圧縮を分子(羽毛のような小さな粒)で説明することに異を唱えたものです。

 ホッブズやボイルの時代であれば分子の「存在」も明らかではなく、「分子説」「充満説」というような対立する論者に分かれたのも無理ものないことです。
 でも現代においてわざわざ「分子説」という人がいたら違和感を覚えることでしょう。

  今時「誰の物理学は分子説だから…」という人っていますか?

 同じように、アダムスミスやリカードが予感した「労働価値説」は、マルクスの抽象力によってすっかり論証されてたじゃん!と今は思います。

 ただマルクスの論理の内実を、日本語で、しかもヘーゲルを読んだこともない人に対して説明するのは相当にむつかしい。マルクス経済学者たちの理解ぶりも、ワタクシに言わせれば怪しいものです。
 この理論を踏襲できている価格理論は唯一MMTのものだけだとワタクシは思うし。

 でもこのシリーズ19回で、少しはその説明ができ始めている?
 そうだったらいいのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?