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MMT=マルクス理論(大石予想)を論証する
「新しいMMT入門」の第11回!
思い付きで始めたこの「入門」でしたが、方向性がなんとなく定まってきました。
実は youtube でも語ったのですが、そもそものぼくの関心はこんな感じ。
![](https://assets.st-note.com/img/1713391976579-c9fEeCva6W.png?width=800)
ここ数回(第8回以降)は、たまたまモズラーの呟きを見たことに端を発して「 Drag による仕事の取り出し」というイメージでまとめてきたわけですが、それはこのうちの「物理学的」「熱力学的」な面白さの追求だったことになります。
そして、やってみたら、この過程で深い気付きを得たような気がするんですよ。
そこでいよいよ大上段に次のことをやってみます。
「マルクス理論とMMTは同じもの?」という予想(大石予想)の証明
この裏には
経済学批判
が横たわるという感じで。
やってみましょう!
マルクス理論とMMTは同じもの?(大石予想)
想像をめぐらせてみてください。
「ぜんぜん別のことを考えていたら実はほとんど無関係と思っていた何かと同じものだった」
このような事例としてどのようなものが浮かびますか?
何しろ「19世紀のマルクス理論」と、ある意味最先端の「MMT」が同じものだとしたら!
ぼくがすぐに思いつくものをいくつか挙げてみます。
例1:ごんぎつね
「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」
物語ではそういうのはありますね。「動物が犯人だった」「探偵が犯人だった」などなど。
例2:谷山-志村予想
たとえば数学の谷山-志村予想(「すべての楕円曲線はモジュラーである」)もその有名な一例です。
そもそも楕円曲線とモジュラー形式は、それまでまったく別々に考えられていたものでしたが、本質的に「同じもの」だった。
そのことはのちに証明されました。
例3:エントロピー
もう一つ挙げたいのが「エントロピー」。
これは谷山-志村予想ほどには知られていませんが面白いエピソードがあります。
もともと熱力学上の「エントロピー」という言葉を定義し、名前を与えたのはクラジウス(1822-1888年)でした。
あとで触れますが、クラジウスがマルクス(1818-1883年)やエンゲルス(1820-1895年)の同時代の最高の学者に一人だったことに注目です。
このエントロピーは、熱力学の創始者に祭り上げられるサディ・カルノー(1896-1832年)にちなんで S という記号が与えらるのがクラジウス以来の通例です。
時代は飛んで、1948年にシャノン(1916-2001)が「通信の数学的理論」の中で、文字列情報に関する「ある量」としてエントロピー(H)を定義します。
これはボルツマン(1844-1906)のH理論から持ってきているので記号は H になったそうですが、そもそも最小は分子の概念もそれほど明らかになっていなかった時代に熱に関する量として定義された S が、情報に関する H と同じものだというのがびっくりするところです。
(フォンノイマンがシャノンに「それはエントロピーだ」という示唆を与えたという話もありますが、違うようです)
そして「大石予想」
ぼくとしては大石あきこさんの「マルクス理論とMMTは同じもの?」という予想は、人類にとって上に匹敵する価値があると思っています。
彼女のページから。
私の言葉で言えば、富裕層のためにやるカジノ開発や戦争ビジネスをやめて、庶民のための生活や娯楽に労働を移行させる。そのためには庶民が団結して、職場も政治も税制も自分たちの手に取り戻さなきゃいけない。そうできたとき、失業もなくせる、デフレもインフレも起きないってことです。
MMT創始者のミッチェル教授が来日したとき、「私はマルクス主義者です」って自己紹介したら、ミッチェルさんのほうも「MMT comes from Marx」(MMTはマルクス主義から生まれた)って返してくれました。やっぱりな!と。
![](https://assets.st-note.com/img/1713399362463-uHiyND3lns.png)
ぼくはこの場面に立ち会っているので、この話は本当だということを知っています。
この「やっぱりな!」の言葉が物語るのは彼女がMMTとマルクスの同等性を予感していたことを表しているので、このことに敬意を表してぼくとしてはこれを「大石予想」と呼びたいのです。
あれ以降、ぼくもマルクスの研究に打ち込むことになりました。
その大きな動機は「なぜ松尾さんがMMTをさっぱり理解しないのか?」でした。
今はその理由をすっかり解明できたと思っていますが、結論だけ言えば、松尾さんのマルクス理解が、経済学思考を導入したせいで間違っていたのです。
上の対談では、大石さんが「マルクス学者松尾先生」にモデルをチェックしてもらうという形になっていますよね。
しかし、マルクス理論をより本質的に理解しているのは大石さんの方だったということ。
そういうことなんです。
松尾さんの精神において、マルクス理論に経済学が混ざったために、元のマルクス理論と違ったものになった。
だから松尾さんにはMMTがわからない。
辻褄が合います。
「マルクス理論=MMT」を理解する媒介としての「経済学」と「熱力学」
さて、ここでぼくは、大石予想を証明するための媒介として「経済学」および「熱力学」という知識体系を用いるつもりです。
大石予想にとってこの二つは対照的な意味があります。
反対のものとしての「経済学」
ぼくが知りたかったのは、「松尾さんがMMTを理解しないのはなぜか」であり、そのために「松尾さんの脳内でマルクスがどのように整理されているか」も探究せざるを得なかったのでした。
そのとき媒介になったのが「経済学」。
「松尾さんに入っている経済学」を反マルクス、反MMTなものとして分析することで、二つの理論の論理体系の同一性がくっきり浮かび上がってくるのです。
同じように科学的なものとしての「熱力学」
もう一つ、ぼくにとってカギとなったのが「熱力学」体系との比較でした。
古典的な熱力学は、熱機関からどれだけの仕事を取り出せるかの限界を定めるためのカルノーの思考実験から出発したものであるわけですが、特に「仕事」(ドイツ語の Arbeit )「原子」(ドイツ語の Atom )などの扱いがMMTとよく似ています。
そのこと(熱力学とMMTの類似)は第8回から第10回において少しは語れたのではないでしょうか。
実は熱力学はさらにマルクス理論と似ているのです。そして
このように「熱力学体系」の理解を媒介させることでマルクスとMMTの等価性を論証することができるのです。
三者の関係とエンゲルスの話
これを図にすると次のようになります。
![](https://assets.st-note.com/img/1713397070735-FUQPxgL9Iz.png?width=800)
ちょうど今週、エンゲルスの文章を読んでいたのですが、こんな一節があります。
すなわち、自然と歴史とのどの科学的領域においても所与の諸事実から出発すべきであり、したがって自然科学においては物質の多様な客観的および運動の諸形態から出発すべきであり、それゆえ理論的自然科学においても諸関連は諸事実のなかへ構成されてもちこまれるべきではなく、諸事実のなかから発見されるべきであり、そして発見されたばあいには、その可能なかぎり経験に即して実証されるべきなのである。
この「『[反]デューリング論』へ旧序文」の一節はぼくにはとても面白くて、エンゲルスが熱力学にも深く(しかも現代目線でなお正しく)通じていたということが伝わってきます。
すなわち分子の概念がまだなく、熱は熱素(カロリック)という物質の移動だと考えられていたので、カルノーも、物質には「熱量(Q)」という状態数があると考え、熱が可逆的に伝わる時に変化せず移動する量はQだったわけです。
しかしクラジウスによって、そのような状態数はエントロピー(∆S= Q/T
となるような状態数)だと考えるべきだということが定式化されるのですが、エンゲルスはそのことを知っている。
ここでエンゲルスはマルクスの資本論の有名な序文を引用し、マルクスの言っていることを引き継ぎます。
(既存の翻訳をお借りします)
ヘーゲルにあっては、彼の体系の他のすべての部門におけると同様に、弁証法においてもすべての現実的関連のさかだちが支配している。しかし、マルクスが言うように、「弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外被のなかに合理的な核心を発見するためには、これをひっくりかえさなければならない。」
しかし、自然科学においてさえ、現実の関係を頭で立たせ、映像を原像とみなしている理論、したがってこうしたひっくりかえしを必要とする理論に、まったくよく出会うのである。このような理論がかなり長く支配することも、まったくよくあることである。ほとんど二世紀のあいだ、熱は、普通の物質の一つの運動形態とみなされないで、ある特別の神秘的な物質とみなされていたのは、まったくこれと同じばあいであり、そして力学的熱理論がこのひっくりかえしをおこなったのである。それにもかかわらず、熱素説に支配された物理学は、熱にかんする一連のもっとも重要な法則を発見し、そしてとくに〔J・‐B・‐J〕フーリエとサディ・カルノーによって正しい見解への道が拓かれ、さらに今度はこの見解が、その先駆者たちによって発見されていた諸法則をひっくりかえして、それを、自分自身の言葉に翻訳しなければならなかった。同様に化学においても、燃素説が百年にわたる実験作業によってようやく材料を提供し、この材料に助けられてラヴォアジェが、プリーストリによって析出された酸素のうちに、空想の燃素の実在の対極を発見し、そしてそれによって全然素説を倒すことができた。しかし、それによって燃素学の実験の成果が除去されたのではまったくない。その反対である。その成果は存続したままで、その定式だけがひっくりかえされ、燃素説の用語から現在通用している化学用語に翻訳され、そしてそのかぎりではその妥当性を保持したのである。
熱素説が力学的熱理論にたいするのと、燃素理論がラヴォアジェにたいするのと同じ関係に、ヘーゲルの弁証法は合理的弁証法にたいしてあるのである。
上の図でいうと、経済学はせいぜい「ひっくり返しを必要とする理論」ということになるでしょう。
ところでこの序文によると、エンゲルスは『[反]デューリング論』を「内面の衝動から」書いたわけではなく、要は「変な理論が跋扈しているからそれを批判する必要に迫られて」書いたという感じだったようです。
わかるわかる!
ぼくも「変なMMT」(や「変なマルクス」)が跋扈していなかったら、こんな note 書いていたりしないのですから。
「完全燃焼時の最大仕事量」、「完全雇用時の総労働」を考える思想
エンゲルスは、マルクスの葬儀の際の弔辞でマルクスを、燃素理論を廃棄し燃焼理論を発展させたラヴォアジェになぞらえたと聞きます。
資本論(草稿を含む総体)を読むと、実際そうだなあと思います。
そしてぼくとしては、モズラーもまた熱力学史におけるカルノーの位置に比肩しうる天才だと見ています。
このことを図示してみます。
![](https://assets.st-note.com/img/1713438232958-WWSiP18joE.png?width=800)
うんうん、こうしてみるとマルクスとMMTの共通点がわかります。
大石さんは「完全雇用時の総労働」という観点から大石予想を打ち立てたとぼくは思っていますが、それは「人間の可能性が解き放たれたとき」をイメージしているということですね。
燃料の完全燃焼とちょうど同じように、人間たちの能力がフルに発揮されたときの「総仕事量」のイメージを明確に持っているのがマルクスとモズラー(MMT)であるというのは確かなことです。
さて、上の図はさらにもっと細かく見ることがでるのですが、それをカルノーとマルクスでやってみましょう。
カルノーとマルクスの類似の図
カルノーは理想気体の熱膨張によって取り出せる仕事を天才の発想で「等温膨張の仕事」と「断熱膨張の仕事」の二種類に分けたのです。
仮に前者が外部からの熱そのものによる膨張であるとすれば、後者は「それ以外のリソース」、つまり気体分子が内在的に持っていたエネルギーが仕事として取り出されたものということになるわけです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713433357004-ylSpAJTkOK.png?width=800)
それをマルクス理論を比較すると、基本的な発想が似ていることがわかります。マルクスは、労働者のなす「総仕事」のうち、生活を維持するためのものとして本人に戻ってくる「必要労働の分」をまず定め、「それ以外」を「剰余労働の分」とするわけですが、それも労働者(たち)が内在的に持っている力の発露なわけですね。
資本家は、金銭を与えることによって剰余労働の分の仕事を取り出すことに成功するわけです。
さて、これだけでは面白くありませんし、経済学との違いはイメージしずらいところです。
より使える「熱力学的イメージ図」
今回からこの話をしようと思い立った理由は、第8回~第10回の過程でMMTとマルクス理論の両方の論理を説明することができるような、もっと使える基本図ができたように思うからです。
なんといってもモズラーの「a running man」の比喩によって、「圧力」を考えさせられたことが大きな契機になったのですが、それはぼくの中でごく自然に、熱力学のピストンによる「仕事(Arbeit)」の議論を想起させ、さらにはマルクスの「仕事(Arbeit,、通常は「労働」と訳される)」ともガチャンとつながったのです。
出来上がった図が、これ\(^o^)/
![](https://assets.st-note.com/img/1713426061847-GXQELReyQl.png?width=800)
また、このイメージそのままに抽象化することもできます。
たとえば発展した資本主義社会における総生産は、下のように書けます。
![](https://assets.st-note.com/img/1713438288694-eqfOx9MBiS.png?width=800)
そしてこの図を使うと、マルクス理論における「必要労働」と「剰余労働」の資本蓄積への寄与をうまく表現することができるのです。
こうです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713438610898-dXXpRsSO77.png?width=800)
どうでしょうか。
この表現は、労働者に圧をかけることで、資本が仕事を取り出し自分の蓄積にしてしまうさまをうまく表せていますよね。
これぼくの実感にもぴったりです\(^o^)/
思わぬメリットは、しばしばいわれる「マルクスは政府の役割を軽視している」という批判を受け止めることができそうなのです。
それはおいおい語っていくつもりですが、たとえば現在の日本でいえば「税のドラッグ」を労働者にかけているのは政府というより資本でしょう。
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「剰余価値ビュー」と「付加価値ビュー」について
いま示したビューは「剰余価値ビュー」に基づいています。
この入門を含めてぼくは、経済学のビュー、つまり間違ったビューが「付加価値ビュー」であり、まともに社会を観察分析するためには「剰余価値ビュー」をとる必要があると強く言っているつもりですし、今後もこれを訴えていきます。
図7で示したところの「資本から労働者から吸い上げて、労働者には分配されずにわがものにしてしまった分」について、「付加価値ビュー」はわざわざまったく異なる説明を与えるのです。
彼らに言わせると、それは「経済成長の果実」であり、その「経済成長」とはどういうわけかしてしまうもので、それは質的には「全要素生産性(Total Factor Productivity、TFP)」がカギを握るのだ!というよなことになる。
しかしTFPを向上させると称する諸施策を、剰余価値ビューで把握するならば、それは必ず労働者へのドラッグ(圧力)を高めるものにしかなっていないということがわかります。ドラッグを高めれてしまった労働者たちは、生存のためにますます力を出さざるを得ないのだから、それで総生産が増えるのは当たり前。
下図のケース2の事態を招きます。
![](https://assets.st-note.com/img/1713442163871-X1NSB41yOg.png?width=800)
そして、そうなっているにもかかわらず、次のサイクルもその次のサイクルも「もっと生産性を上げなけらばならない」となって、いったい何やってるんでしょうね?となっている国が、例えば今の日本。
と、このような感じで「熱力学的イメージ図」とその「抽象図」を使うとさまざまなことをうまく説明することができるのです。
次回はこれを使ってJGPを表現してみることにしましょう。
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