「鯨」字は「京(大きい)+魚」だとか右文説とか「会意兼形声」とかの憶説はなぜ文字学界に受け入れられないのか
※この記事は https://note.com/nkay/n/n52fb6d7c6fd3 のつづきです。
※2021/06/18:誤字を修正しました。
※2021/07/08:誤字を修正し、ついでに一部の文章をわずかに変更しました。
概要をいうと、『ゆる言語学ラジオ』というYouTubeチャンネルにおいて、漢字に関して学術的に誤った理解に基づいた動画が作成され、(それが言語学的に正しいものとして)拡散されている。そこで、それを訂正する記事を書いたというわけである。
前文
この記事では、「鯨」字に対する誤った説明に対していろいろな角度からツッコミを入れていく。
誤った説明とは以下のものである。これを[説A]と呼ぶことにする。
なお、正しい説明は以下の通りである。その説明は前回記事を参照いただきたい。これを[説B]と呼ぶことにする。
実際には[説B]には前回記事で説明した背景理論を含む。[説A]にも背景理論があれば含めたいものだが、これに関して学術的な説明がされた場面に出くわしたことがなく、背景理論とやらが存在するかどうかも疑わしい。おそらくそんなものはなく無根拠に場当たり的に考案されたものだろうと思う。そういう面も[説A]の非学術性をあらわしている。とはいえ[説A]に類似した説明が「鯨」字以外にされていることもあるので、ともかく類似するものはそれぞれの説に含めるということにしておく。
なお、以下の主張をする人もいる。[説A’]と呼ぶことにする。
ただ、これから[説A]に対して行う言及はおそらくほとんど[説A’]にも適用される。だからここでは[説A]と[説A’]を区別しない。
以下「[説A]の支持者」という言い回しをするかもしれないが、特定の誰かを想定しているわけではない。[説A]の支持者に対して[説B]の支持者になるよう改心を説得するような文章になるかもしれないが、それは説明の便宜である(ちなみに、心底[説A]を崇拝している人を改心させるのは困難である)。この記事は、文字学に興味がある人・勉強し始めた人が過ちに向かわないようにするためのガイド、あるいは過ちにハマりかけているがまだ抜け出すチャンスのある人に対する説明の1例だと思ってもらえればよい。
なお、[説B]の支持者はあらゆる全ての漢字に対して[説B]に類する説明ができると考えているわけではない。この記事では[説A]と[説B]の対立について考えているから、「人」とか「𠔻」とかいった字に関する話はしない。
本文
権威主義
まず、文字学について深く勉強したことのない人にはショッキングな事実を伝えねばならない。世に出ている(一般的な書店に並んでいる)漢字の構造とか字源だの成り立ちだのを解説している本のほとんどは非学術的な内容が羅列されたデタラメ本である。これは『本当は怖い漢字』のような、タイトルを見た時点でなんか胡散臭く感じる泡沫雑学本だけではない。漢和辞典――名前を挙げれば『漢字源』『新字源』『新漢語林』等等――に掲載されている「漢字の成り立ち・字源・解字」も、多くは(おそらく編纂者に文字学的知識がかなり基礎の部分から欠けているために)非学術的な方法で生み出されたり文字学の定説とはかけ離れたりしているものである。だから、[説A]のような類の俗説は市販の漢和辞典や雑学本にも多く載っているが、それを信用すべきではない。とはいえ素人・初学者は何らかの権威にすがらなければ知識を得ることができないため(したがって分野外のことを科学の権威にすがるのはむしろいいことである、しかしここで問題なのは皆が権威だと思っていた漢和辞典は実は間違っているということである)、ちゃんとした(?)文字学者が書いたものを読むのが良い。具体的にどの書籍を読めばいいのかは前回記事同様紹介していく所存である。
重要なのは発言者ではなく理論そのものであるが、「皆が権威だと思っている」ものについて一応コメントしておく。『漢字源』(改定第六版)の最初の方に、編者がこう記述している。
甲骨・金文を研究している人から見れば、この記述は不正確だし態度は不誠実だと思わざるを得ない。というか甲骨・金文に対して、資料に問題があると主張することで、自身がその知識がないことを正当化しているようにしか思えない。『漢字源』は上記のような方針をとって甲骨・金文の研究成果を無視した独自の解釈を掲載するが、甲骨・金文の字形を甲骨・金文の研究者の著書から引用して掲載しているため、併記された説明文と字形が矛盾していることもある。こういう態度をとる人を学術の権威と思いたくないし、思ってほしくもない。
『新字源』(改訂新版)に掲載されている「なりたち」はいろんな漢和辞典類からの寄せ集めのようである。相反する記述にぶつかった場合は、両方載せるかいずれかを選択するかしている。相反する二つの学説にぶつかった場合どちらの理論を選択すべきかの判断基準において、どのようにその学説が主張・論証されたか、つまり根拠は重要なものの一つである。しかし『新字源』のそれはそれをいちいち確認しているようには見えない。編纂者へのインタビューでは客観的な根拠が提示できるものを載せたと述べていたが、結局その根拠がどこかに示されることはなかった。それどころか明らかに根拠のない説が載っているのだから、結局は自身の「感触の良さ、気持ちよさ、直感的なもっともらしさ」で判断しているんじゃなかろうか。
[説A:「鯨」字に「京」が含まれるのは、「京」が大きいことを意味するからである。]を支持する人も、おそらく「感触の良さ、気持ちよさ、直感的なもっともらしさ」でこれを支持しているものと思われる(なお『新字源』は「鯨」字に対しては適切な解釈を掲載している)。
誤謬
[説A]の「感触の良さ、気持ちよさ、直感的なもっともらしさ」はどこからくるのか。それは以下の考えによる。
この考え方は論理的に誤りである。
学問は真相追求という点で犯罪捜査に例えやすい。上の誤りは以下の例に等しい。
「A君が私からお金を盗む」ことは、「私の財布の中からお金がなくなる」ことの十分条件であるが、必要条件ではない。要は「私の財布の中からお金がなくなる」原因は「A君は私からお金を盗んだ」以外にも考えられるだろうから、お金がなくなったからといって「A君は私からお金を盗んだ」が正しいとはいえない。同様に、[説A]は「鯨」字に「京」が含まれることの十分条件ではあるかもしれないが少なくとも必要条件ではない。
これを「後件肯定の誤謬」という。[説A]に感じる「感触の良さ、気持ちよさ、直感的なもっともらしさ」は、論理的には誤っており、正当性の主張にはならない。
別の字の例を挙げよう。以下は宋・沈括『夢渓筆談』に引かれる王聖美という人の説である。表現は今風に変えている。
一見もっともらしく見えるが、この説明の問題点は昔からいくつも指摘されている(たとえば[裘錫圭2013:172-173]を参照)。その中でも、ここでいいたいのは、「浅・銭・残・賤」から「小さい」という共通の“イメージ”が引き出せるということは、すなわち「浅・銭・残・賤」に「戔」が含まれる理由が「小さい」を表しているからだ、ということはならないということである。共通の“イメージ”を引き出せるというのはただそれが可能であるというだけである(さらにいえばその“イメージ”は主観的・恣意的である、後述)。それが、因果にすり替わっている。まあ因果にすり替えた仮説を考え出すのは良いが、その仮説は正当化できない。学問であるならば、ただそれっぽい仮説を言えばいいというものではなく、どういう説明が最も良いのか考えたり、そのためにテストしたりしなければならない。印象で決めつけた犯罪捜査では真相にたどり着くことはできない。
仮説には根拠が必要
一見「後件肯定の誤謬」であっても、補助的な情報・背景情報によって正当性を主張できる場合もある。というかそういった証拠があるからこそそれが学説として言及されるのである。
例えば、上の財布の例で、「財布の中にお金があることを確認してテーブルにおいた。その直後A君がテーブルの周りをうろうろした。その直後に財布を確認するとお金がなくなっていた。」という流れがあったとする。この場合は「A君は私からお金を盗んだ」以外に「私の財布の中からお金がなくなる」ことを説明できる仮説はなさそうである。つまり「A君は私からお金を盗んだ」は(少なくとも現時点では)他に良い案がなく唯一事件を解決できる道筋である、この場合も即座に正しいとは言えないが、そこに一定の正当性が認められる(無論、その後にそれが本当に正しいかどうか何らかの方法でテストされることが望ましい)。しかし[説A]は「鯨」字に「京」が含まれることを説明する唯一の仮説ではない。それどころか[説B]のほうがよりよい説明だと文字学者は主張するだろう(後述)。
また「最近A君の周りで紛失事件が多く発生している」という背景があったらどうだろうか。この場合もA君を疑うだろう。めったに起こりそうもない、似たような現象が頻発したら偶然ではなくなんらかの法則性を疑うべきである。紛失事件が1件起きること自体は珍しくないかもしれない。しかし、「紛失事件が起きたとき、そばにA君がいる」が複数回発生することはそう起こることではない、ならばA君が関係していることを疑うべきである。そしてそれを説明する最も良い説明が「A君は窃盗常習犯である」であり、それによって今回の事件に対しても「A君は私からお金を盗んだ」ことを主張できる。数ある類例から法則を見つけ出し、さらにそこから原因を推定し、それによって現象に説明をつける(説明がつくかどうかを検証する)、というこの流れは学問で最もよく見る流れの一つである。前回、形声字についてもこの流れで説明した。法則を帰納し仮説を形成し現象を演繹し検証する。捜査は、学問は、このようにして行われる。
[説A]はこのような推論が行われているだろうか。僕の印象では[説A]の支持者は、「「鯨」って字、「大きい(京)魚」って分解して読めるじゃんw」という感想・印象ただそれだけで「「鯨」って字は「大きい(京)魚」という成り立ちである」と主張しているように見える。こういう方法は学術的とはいえない。また「戔」と「浅・銭・残・賤」の例は、「法則を帰納し仮説を形成し現象を演繹」のパターンを踏襲しているようにみえるかもしれない。しかし、どう考えても類例の数が少なすぎる。またいずれにせよ[説A]の類は、[説B]の支持者が発見した形声字の法則(「京」を含む字が「京」と近音になっている等)になにも説明を与えることができない(偶然として処理するしかない)。[説B]はこれを説明することができる。
ここが重要なので再度繰り返すが、「「鯨」って字、「大きい(京)魚」って分解して読めるじゃんw」という感想・印象は、[説A]の証拠にはならない(あるいはなったとしても極めて弱いし、検証もされていない)。思い込み・自己満足を学説とは言えない。
単純性
学問では単純性が好まれる。例えば、多くの事柄を説明する、広い範囲に対して同じように適用できる仮説のほうが優れていると判断する。[説B]は「鯨」字だけでなく、「景鯨椋掠涼諒凉勍黥倞剠弶綡輬鶁麖㹁䁁䝶䣼䭘𣄴𩗬」といった字に対しても同様に「京」が発音記号として含まれていると説明する。対して[説A]は「京=大きい」として「鯨」字を説明するが、他の字に対してはどうだろうか。
ゆる言語学ラジオ#4の動画では、[説A]で説明できる字と[説B]で説明できる字があると語られる。
これは場当たり的である。「鯨」字中の「京」も音を表すという説明ができる。一貫性を持つべきである。つまり、「景鯨椋掠涼諒凉勍黥倞剠弶綡輬鶁麖㹁䁁䝶䣼䭘𣄴𩗬」といった字に含まれる「京」は全て発音記号であるとするのは単純明快であるが、その中で「鯨」字だけは発音記号ではなく意味から考えたものであるとするのは一貫性がない(一貫性を崩す証拠がない)。
上例の場合、四人がインフルエンザにかからなかった理由について、全員に対して「予防接種を受けたから」と考えるだろう。場当たり論者の「下の三人は予防接種の効果だが、長兄だけは予防接種を受けたからではなくマスクをつけたからだ」という仮説に一貫性がなく不自然なのはいうまでもない。もしそのような主張をするならば、(マスクの有効性以前に)長兄だけに予防接種の効果がなかった特別な理由を問われるのは当然である。無論これは[説A’]のように、「下の三人は予防接種の効果だが、長兄だけは予防接種を受けたからだけではなくマスクをつけたからでもある」と主張したとしても同じことである。「予防接種を受けたから」で説明のつく事象に、他の原因を想定することは意味がない。
上の例では、マスクは感染予防に効果がありそうなので長兄がインフルエンザにかからなかった理由をマスクに求めたくなるかもしれない。しかし、既に述べたようにこの考えは誤りである。例えば以下の場合はどうだろうか。
四つ子がインフルエンザにかからなかった理由として、場当たり論的な「下の三人は予防接種の効果だが、長兄だけは予防接種を受けたからではなく、きちんと挨拶をしたからだ」という仮説をたてられるだろうか。そういう主張に対しては「長兄だけに予防接種の効果がなかった特別な理由」だけでなく、「挨拶が感染予防の原因(一因)である理由」も問いたくなる。最初にあげた方の例でも、マスクの有効性が検証されていなければそう突っ込まれるだろう。例えば予防接種を受けずマスクや挨拶をしていた場合はどうなっていたのか?つまり、[説B]で説明できない字のうちに、「京=大きい」とか「戔=小さい」で説明できる字が存在するのか?存在しなさそうである。
予測と検証
ここまで検証という言葉を何度か使った。仮説は検証されなければならない。そうでなければ根拠があったとしても思い込みじゃねーのと言われるだろう。ガリレオは「物体の落下速度は重さにかかわらず一定である」という仮説をたて、実際に重さの異なる球を転がすか落とすかして検証した。文字学者はこういうことはしょっちゅうやっている。
1987年、湖北省荊門市で戦国時代(紀元前4世紀末)の墓が発見され、そこから文字が書かれた竹簡約280枚が出土した(詳細は[湖北省荊沙鉄路考古隊1991]参照)。中身は現在伝わっていない当時の司法文書であった。そこから以下に2字抜粋しよう。
見てわかるように当時の字の形・書き方は今とはかなり違うので、文字形体学的な考察により今のどういう字に相当するかがまず検討されるが、ここではその話はしないのでその結論を言うと、上の字は「辶+化」からなる字で、下の字は「几+日」からなる字で、どちらも現在は存在しない字である。問題は、意味的になんと書かれているか・何を表しているのかである(念のために言うが、現在は存在しない字が使われていたとしても表しているのは中国語である)。
「辶」は移動にまつわる字に、「日」は時間にまつわる字に、それぞれよく含まれる部品である。[説B]の支持者はさらに残りの部分、つまり上の字に含まれる「化」および下の字に含まれる「几」を、[説B]の理論に従ってそれぞれ音を表す部品と仮定する。それらを考慮すると、上の字は「化(カ)」に近い発音で移動にまつわる単語「過(カ)」、下の字は「几(キ)」に近い発音で時間にまつわる単語「期(キ)」、であることが予想される。竹簡の初動整理担当者[湖北省荊沙鉄路考古隊1991:42,47]ならびに以降の文字学者は皆この過程を経て、この2字を「過期(カキ、期限を過ぎる)」と読むと予測した(詳細は[朱暁雪2013:141-142,232-233]を参照)。
[説A]の支持者は上の2字をどうやって読むのだろうか。『新漢語林』は「貨」字や「訛」字に含まれる「化」は「変わる」という意味があるというが、では「辶+化」をどのような意味だと予想付けるのだろうか。『漢字源』は「肌」「机」「飢」字に含まれる「几」は「小さい」という意味があるというが、では「几+日」をどのような意味だと予想付けるのだろうか。
予測ができるというのは重要である。予測ができなければ未知の文字の解読に成功するか失敗するか以前に、読もうと取り組むことすらできない。そして、予測ができれば検証ができる。
1993年、再び湖北省荊門市で戦国時代(紀元前4世紀末)の墓が発見され、そこから文字が書かれた竹簡約800枚が出土した(詳細は[荊門市博物館1998]参照)。その中には『老子』が書かれたものもあった。現在伝わっている『老子』には六十四章に「復衆人之所過(人々の行き過ぎたところを返す)」という句がある。竹簡でその句の「過」の部分を確認すると、果たして「辶+化」と書いてある。つまり[説B]に従って行われた解読(「辶+化」=「過」)が正しいことが証明されたのである。このような、未知の文字に相対したときに[説B]に従ってそれが正しく解読できたというのは[説B]の正しさを支持する。[説A]が正しいのだとしたら、間違っている[説B]に基づいた結果偶然正しく未知の字を解読できたのは奇跡である。
逆パターンの予測・検証も可能である。「京」と「就」は音が近くないため、「就」は[説B]にそぐわない字のように思われる。しかし、秦以前に書かれた「就」を見ると、左側は「京」とは似て非なる部品であることがわかる。似て非なるものが時代を経ておんなじように書かれることはよくあることである。つまり同じ発音記号を共有しているように見えるのに音が違っていれば、実は似て非なる部品なのではないか、と予測が立てられる。
このような例は枚挙にいとまがない。『新字源』の編纂者はインタビューで「『論語』の新しい写本が出てくることなど、ほとんどありえません」などと供述していたが、特に20世紀以降、多くの文献(当然『論語』の新しい写本も含む)が地中から発見されており文字学者は日々その解読作業を行っている。文字学者はその際に「京=大きい」だから「鯨」字が表すのは大きい魚なのかなとか、「几=小さい」だから「几+日」字は小さい太陽みたいな意味なんだろうな、などという方法で解読を行っていない。誤った捜査方法では真相にたどり着くことはできない。
新出資料によって[説A]が検証され成果を挙げたことがあるのだろうか。いやそもそも[説A]の支持者はこうした文字学の研究活動に参加しているのだろうか。
恣意的・作為的・場当たり的
最後に[説A]の中身の主観的・恣意的・作為的・場当たり的な面について述べる。「浅・銭・残・賤」字の「戔」には「小さい」というイメージがあるとする説に対して[裘錫圭2013:172-173]は以下のように指摘する。
「銭」字は当初土を掘る農具を表していた。その農具を模した貨幣が作られたため、貨幣を「銭」というようになったのである。したがって「戔(小さい)+金」で「銭」というのは間違っている。
この指摘でわかることがある。[説A]は存在しない意味のつながりを創作できる。「銭」字は「戔(小さい)+金」では絶対にないにもかかわらずそのように解釈できる。まさに後件肯定の誤謬の指摘の例である。
この記事で[説A]が生み出したイメージとして「京(大きい)」「戔(小さい)」「化(かわる)」「几(小さい)」を例として紹介した。選んだわけではなく偶然であるが、3/4が「大きい/小さい」である。この「大きい/小さい」というのはなんとも都合が良いとおもわないだろうか。あまりに漠然とした「イメージ」である。以下に例を示すが、大小のイメージをあてはめることができない事柄を見つけるほうが難しい。僕の言いたいことがわかるだろうか、[説A]のほとんどは恣意的なこじつけである。
『漢字源』は「肌・机・飢」字中の「几」は「小さい」というイメージがあるとするが、「几」字に「小さい」などという意味は存在しない。そう主張する『漢字源』にすらこんな意味は載っていない。『漢字源』に掲載されている「几」の意味は「1.つくえ。2.いく。いくつ。3.几几とは落ち着いて重々しいさま。」である。「小さい」はどこからもってきたのか?「肌・机・飢」字に対して個人的に都合の良いものを考案したとしか考えられない。前文で「甲骨文・金文は資料になりえない」等といっている場合ではない、この人はそもそもいかなる資料にも依拠していない。『漢字源』の「解字」欄は以下のように説明する。「几」は小さいものだから小さい→細かい・少ないというイメージがあり、「肌」は肉体の細かい組織がある部分を示す、「飢」は食べ物が少なくて腹が減ることを示す。[説A]の支持者はみなこの説明で納得するのだろうか。「肌といえば肉体の細かい組織、細かいと言えば小さい、小さいといえば机」、こんな調子で行けばあらゆる概念同士を結びつけることができそうである。『漢字源』にはこの手の連想ゲームばかりが「解字」として並んでいるが、ただただこじつけとしか思えないし、中にはどう考えても意味不明なものもある。
「京(大きい)+魚」で「鯨」は一見整合性があるように感じるかもしれない。しかし「京」字には「都」という意味があるから、「都で好まれる魚」とか「海の都に住む魚」とかでもいけそうである。そういう中から「大きい魚」が選ばれる理由が見当たらない。たとえ「京」字が「小さい」という意味だったとしても「人が小さく見える魚」とか言える。なんでもいい。
漢字には、多くの意味を持つものもあれば一つの意味しか持たないものも有る。意味には漠然としたものもあれば固有のものを表すこともある。[説A]の支持者は多くの意味を持つ字があればその中から自由に選択できる(実際に選択している)、漠然とした意味であれば都合が良い、不都合があれば意味を拡大解釈する。明らかに客観的ではなく、恣意的・作為的である。だから[説A]の支持者といってもいろんな事を言う人がいる。漢字の成り立ちには諸説あって見解が一致しないなどという言説をたまに聞くが、学界ではほとんどの漢字は[説B]で説明される。諸説あって見解が一致しないようにみえるのは、客観性皆無の[説A]の支持者が一般向け書籍やインターネットで好き放題言っているからである。
『新漢語林』の「肌」字の「解字」には「几は、緊に通じ、ひきしまるの意味。生きた肉体を覆う、ひきしまったはだの意味を表す。」とある。「几が緊に通じる」とはどういうことなのかわらかない(なお「几」字に「ひきしまる」の意味はない)。これで「肌」字中の「几」に意味があると主張できるのだろうか。意味の拡大解釈どころかなんでも好きな意味に結びつけられるようである。僕にはこの説明は「几」は意味を表す部分ではないといっているのと同じことのように思える。[説A]に固執して意味をこじつけようとした結果破綻している。
ゆる言語学ラジオ#4でも終盤でこうした「こじつけの取り組み」が語られてしまっている(発明しているという意味ではない)。「幕」の上部の「莫」にも意味があるとして、「幕」は「隠すための布」、「墓」は「死体を隠すための土」、「暮」は「日が隠れる」だといっている。しかし「莫」字の意味は否定の「ない」であって「隠す、隠れる」ではない。その直後にされる「もともと「莫」と書かれていて偏旁が足された」的な説明は半分正しく半分間違いである。この一連の流れは言葉と文字とを混同しているように思われる(この件については機会と需要があれば別に記事を書くこととしたい)。最後に、「慕」は「隠したい心」だと言うが、「慕」字の意味はあくまで「したう」であって「隠したい心」ではない。「莫」には「隠す」というイメージが有るから「慕」は「隠したい心」なんだ、という考えは最も危険な発想である。字の意味を字形から想像することは絶対にできないし絶対にしてはいけない(過去記事①、②も参照)。これは犯罪捜査の例えで言えば真相解明に失敗しただけでなく、思い込みから冤罪を生んでいるに等しい。字の意味は形から妄想すべきではなく、実際の用例から採取すべきである。漢字の意味を調べるのに[千田2021]では『漢語大詞典』を推奨している。
なお、『漢字源』も『新漢語林』も好き放題やっているが、例えば「弶」字をひくと、一般的な[説B]による説明が載っている。こじつけに失敗したのか、常用漢字じゃないから適当にすませたのかはわからないが、いずれにせよ場当たり的な判断であって根拠のある判断とは思えない。
一貫して[説B]に従うならばこのような創作行為や自己満足には陥らない。音の近さは客観的に決まる。「京」と「鯨」は近いし、「浅・銭・残・賤」と「肌・机・飢」は遠い(どういうものが近くてどういうものが遠いかは前回記事であげた音韻学の教科書や[古屋2008][張富海2018][潘悟雲2020]参照)。ただそれが全てである。無論全ての学者が同じ結論になるわけではないが、それは音韻学的・文字形体学的な情報不足からくる不明瞭なのであって、好き放題言っているわけではない。新出資料により情報が出揃えば決着する話である。
おわりに
[説A’]の支持者は以下のようなことを言うことが有る。記事のおさらいも兼ねてこれに反論しよう。
「京」が含まれている字全てに対して、「京」が含まれている理由は発音だけで説明がつく。「京」が選ばれたのは偶然であって、意味的に近かったという付加的な理由を仮定する必要はない。サイコロを1回ふって6の目が1回出たとする。サイコロを1回ふって6の目が出る回数の期待値は1/6であるから、結果(1回)はその6倍の回数であり見かけ上すごいことである。しかしここに特別な理由は存在しない。「鯨」の「京」に特別性はない。
戦国竹簡の例で、「過」が「辶+化」と書かれること、「期」が「几+日」と書かれることを紹介した。「鯨」も「䲔」とも書く。つまりそもそも「「京」が(特別に)選ばれた」わけではない。単にいま「鯨」と書くほうが一般的になっただけである([沙加爾2019]も参照)。字を書くときにいちいち「「京=大きい」って考えたら「鯨」のほうがいいな」と考えてから「鯨」と書く人間は少数派のように思える。
もし「鯨」の「京」に意味があるならば他の字に含まれる「京」にも意味がなければおかしい。しかし「京」が含まれている字全てに対して、「京」が含まれている理由は「京」に近いから選ばれたと説明することはできないように思われる(もしそれを行おうとすればこじつけになるだろう)。とすればその説明は明らかに劣っている。発音だけで説明がついていたのに、意味も関係しているという余計な仮定を付け加えた結果未解決問題が増えている。
それでも「鯨」を「京(大きい)+魚」というふうにして理解できることにはかわりはない。それは絶対に否定できない。しかしそれは漢字の機能的構造とか成り立ちとかとは全く関係がない。年号の語呂合わせとかと変わらない。現実の構造とは全く関係がないので、未知の文字を解読するのにも全く役に立っていない。
以下に文字学者がどのようにして未知の文字を解読しているかについて述べられた論著を記す。この記事の読者が、検証を経ていない言いっぱなしのトンデモに騙されず、実際に学者が問題に取り組んだ成果を読んで勉強することを望む。
劉釗『古文字構形学』修訂本,福建人民出版社,2011年。東方書店
陳剣,『《釈殷墟甲骨文裏的“遠”“𤞷”(邇)及有関諸字》導読』,裘錫圭 原著『中西学術名篇精読・裘錫圭巻』,中西書局,2015年。東方書店
劉洪濤『形体特点対古文字考釈重要性研究』,商務印書館,2019年。東方書店
引用文献(漢和辞典は略)
湖北省荊沙鉄路考古隊『包山楚簡』,文物出版社,1991年。
荊門市博物館『郭店楚墓竹簡』,文物出版社,1998年。
古屋昭弘『上古音の開合と戦国楚簡の通仮例』,早稲田大学大学院文学研究科紀要第2分冊,2008年,第211-228頁。
裘錫圭『文字学概要』修訂本,商務印書館,2013年(日本語訳:早稲田大学中国古籍文化研究所文字学研究班 訳,中国古籍文化研究所,2007年、内容は1998年初版に基づく)。
朱暁雪『包山楚簡綜述』,福建人民出版社,2013年。
張富海『諧声仮借的原則及複雑性』,『嶺南学報』復刊第10輯,上海古籍出版社,2018年,第95-106頁。
沙加爾・馬坤 訳『先秦時期諧声声符的選択問題』,『饒宗頤国学院院刊』第6期,2019年,第73-82頁。
潘悟雲『上古音構擬』,『出土文献』2020年第2期,第127-135頁。
千田大介『解説:漢和辞典と中国語辞典』,漢字文献情報処理研究会 編『デジタル時代の中国学リファレンスマニュアル』,好文出版,2021年,第a.44-a.45頁。
余談
以下の記事で僕の書いた記事が引用されていました(ありがとうございます)。僕の書いた記事と内容に関連があるので紹介します。