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【生活評論】評論家への道 ― 思考のアウトプットと自己探求の狭間で

 思考のアウトプットの為に文章を書く、それが第一の目的なのか?このような疑問が頭に過ぎった。この問いに対して、更に問い返す事が出来る。即ち、第一の目的、第二の目的と順序付ける意味はあるのか?このように、問い自体を無効化する事が出来る。同じように、問いに対する問いをもうひとつ。そんな事より僕は今、TOEICの勉強をやるべきじゃないのか?これに関しては、問いの致命的な欠点を指摘している気がする。

 とはいえ、僕の現状を確認してみよう。ジークムント・フロイト(心理学者、精神分析学)は、「科学とは、用語の厳密な定義付けからではなく、むしろ事象を正確に観察する事から始まる」的な事を言っていた。僕のこの記事が科学であるつもりは全くないが、ひとまず、事象を正確に観察してみよう。
 
 まず、僕は今日、一本の映画を観た。その映画は、どう評価すべきか大変迷うものであった。というのも、その映画は、ストーリー展開をそのままメッセージ性として読み取ってしまえば、道徳性の欠如した酷い映画となる。しかし、もっと深いメッセージを読み取れるのか、変に捏ねくり回しただけの下劣な弁明しか存在しないのか、判断がつきかねた。

 映画に関しては門外漢だが、こと作品に関しては、なんでも好きに表現して良いと思っている。映画に関しては、評価基準が幾つも存在するのは知っており、特に映像技法やらなんやらに関しては自分は素人である。しかし、こと自分が評論できるストーリー性に限って言えば、あまり高評価は出来なかった。

 そこで、僕は色々と考えていた。まず、僕はこの手の評論センスにおいて、かなり自信がある。既存の価値観から脱却した視点で作品を解釈するし、それを論理的にアウトプットする事も恐らく出来る。問題なのは、権威が無い為に、自身の評論に価値がつかない事だ。ここでいう価値とは、アジテーション力なども含まれる。

 なので、この映画の評論行為に関しても迷った。評判は高い映画だ。批評をするとしても、底辺のみっともない悪口に見られてしまう。そもそも僕は映画鑑賞は素人だ。仮に、他で培った教養が、映画に援用出来るとしても(実際出来るだろう)、多くの映画好きはそれを認めないだろう。

 そういった具合で、映画の評論記事を書くのをやめた。しかし、僕は、欲望が抑圧された事によって、更に思いを強くした。評論家になるべきだ。真贋の分からぬ大衆に向けて、論理的に作品を読解するのを見せ、作品について議論するという楽しみ方を広めたい。それには、物事を一番「分かっている」人が相応しく、それにならなければいけない。 

 そもそも、あらゆる事象の読解レベルは、どれだけ観察した事象に関する知識を所有しているか、そして、正しい推論が出来るかで決まる。形而上学について何も知らない人間の作品読解は、物事を表面的にしか捉えられない。評論は、普遍的な教養の元になされて、初めて高い基準を持つ。

 無論、更なるエッセンスも必要だ。つまり、独自の視点である。それは、はいこれ読んでねとばかりに与えられた教養書を読むだけでは培う事は出来ない。ただし、これも、結局は、特異なインプットをしているだけに過ぎない。重要なのはインプットである。

 そこで、僕は、今の期間はひたすらインプットをすべきだという結論に落ち着いた。しかし、noteを書きたかった。そこで、2つの理由が思い付いた。一つは、思考のアウトプットが目的であるという説である。二つは、今の時点で、既に自分は面白いものが書けるので、「今」評価されるのが目的であるという説である。しかし、後者は唾棄されるべきだ。

 よって、僕は言い訳として、「思考のアウトプットが目的なのか?」「なら、書けばいいだろう」と判断を下したのである。無論、今、このnoteを書いたところで誰にも評価されない。レベルが低いからだ。意味がない。もし、本当に向き合いたいならば、心を込めて評論を書くべきだ。それも分かっている。この文章を書く意味で、許されているのは、「思考のアウトプット」しかない。しかし、第一の目的、第二の目的と順序付ける意味はあるのか?

 だって、今、評価される可能性だってあるじゃないか。それを目的としたところで、第二の目的(仮に)の「思考のアウトプット」は果たされるだろう。なぜ、このように、現実を思い知れ、夢など見るなと自分を責めなければいけないのだ?そして、そんな事より僕は今、TOEICの勉強をやるべきじゃないのか?だって、勉学を積むインプットが優先の筈だ。

 最終的には、このような巡回思考こそが無駄であるという結論に辿り着く。この記事を書いているのは良い事だし、TOEICの勉強をやるのも良い事だ。ただ、一つ、僕がこの文章を書いている動機としては、アウトプットの練習という所に落ち着く。定期的に文章を書かないと、腕が落ちるような気がしているのだ。では、何に備えているのか。それは当然、評論家になることである。


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