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スタートリップ


旅の終着点

ビェルスコ=ビャワ中央駅

ドイツのデュッセルドルフを出発して、夜行バスと鉄道を乗り継ぐこと18時間。
特急列車を降り、ようやく辿り着いた目的地の地を踏んだ時、肺の奥がギュッと握り締められるような感覚を覚えた。
駅を出た自分の目の前に広がる見慣れた光景、温かな日差しと吹き抜ける冷たい風と山の草木の匂い。
その全てを、自分の語感は鮮明に覚えていた。
でもそれはデュッセルドルフで感じたのとは似て異なるもので、やっぱりあの時感じた感情を的確に表現する言葉を見つけることはできなかった。
 
日本に帰る前に立ち寄ったのは、ポーランドのビェルスコ=ビャワという街だ。
3年前の2019年に一年間だけプレーしたクラブがある街である。
半月板損傷をしてサッカーを辞める決断をして、その時に少しだけ迷ったがポーランドのクラブにも連絡をした。
ポーランドを離れた後もずっと自分のことを気に掛けてくれていて、そして自分もこのクラブに対しては特別な感情を抱いていて、だからこそ引退の報告は自分がこのクラブに示すことのできる最後の敬意だと思ったからだ。

俺の報告を聴いたクラブのマネージャーは、ドイツの旧友たちと同様に「お疲れ様」とは言わず、その代わりに、「一度会って話をしよう」とだけ返事をくれた。
確かになと思った。自分もできることなら直接会って、「さようなら」を伝えるのが筋なのだと思う節があったから、デュッセルドルフでの仕事が終わって、立ち寄ることを約束したのだった。

ポーランドでのシーズンは自分にとって人生最大の挫折ともいえるシーズンだった。
プロ契約をしてもらったのに関わらず、股関節の怪我で半年も離脱、復帰後もコンディションが上がらずに一年間で出た試合は3試合のみ。
完全に期待はずれの外国人選手となってしまったが、それでも監督やオーナー、マネージャーにチームメイト、そしてファンは最後まで期待を寄せて、契約が切れた時には契約延長の話まで持ちかけてくれた。
だけど、自分はその話を断った。

「このままではいつまでも皆の期待に応えられない、だからもっと良い選手になるために、一人で厳しい環境で挑戦したい」

このクラブで出会った全ての人たちの暖かさに触れて、その全てに心底惚れ込み、でもその期待に応えられなかったからこそ、環境を変えたいと思ったのだ。
だからクラブとファンに、「必ずここに戻ってくる」と約束をして、ポーランドを離れた。

その約束が未だ果たされぬまま3年が経って、コロナ禍とハンガリーとスロバキアでの挑戦を経験した自分は、皮肉なことに「さようなら」を告げるために再びこの街を訪れた。

昨日は歴史になる

3年前に在籍したクラブのホームグランド

ホテルにチェックインをして荷物を置いた後、真っ先にクラブのグランドへと向かうと、3年前と変わらない姿のマネージャーがすぐに応接間で出迎えてくれた。

「久しぶりだな、何も変わってないじゃないか」
「デュッセルドルフからだと遠かっただろう」
「わざわざ来てくれてありがとう」

陽気に歓迎してくれたマネージャーは、怪我については何も触れなかった。
会えば必ず引き留められると思っていたものの、マネージャーは決して自分を引き留めようともしなければ引退を容認することもなく、まるで何も知らないかのように世間話をするだけ。
その様子に少しだけ拍子抜けしながらも、暫くの間は二人でピッチを歩き、クラブハウスのロッカールームや用具室を回って懐かしさに浸りながら、他愛もない会話をしただけだった。
世間話も一通り終わり、示し合わせたように応接間に入るとマネージャーはおもむろに3年前の話をし始めた。

来る前はあまり期待していなかったけど、トライアル初日のパフォーマンスを見てビックリしたこと。
ホームでの公式戦デビュー戦で、途中出場で送り出す時に何故かマネージャーが緊張していたこと。
試合に出れなくても腐らずにトレーニングに励んでいた姿をずっと見ていたこと。
そして最後にまたここでプレーしたいと言ってくれたことが嬉しかったこと。

あの頃と変わらない優しい瞳で自分のことを語る姿を見て、目頭が熱を帯びていくのが分かった。
そして、とうとう堪えられなくなって、震える声で「本当にごめん」と言ってしまったのを機に、号泣してしまった。
もう28歳になる良い大人だというのに泣きじゃくって、感情を抑え切れなくてぐちゃぐちゃになったまま、会ったら伝えようと思っていたことをそのままの勢いで気が付けば全部話していた。

3年前に沢山の人か受け取った恩を今でも忘れていないこと。
戻ってくると約束をしたのにそれを果たせそうにないこと。
大勢の人が自分を気にかけてくれていたように、自分もまたこのクラブのことをずっと気にかけてくれていたこと。
怪我をしてしまった今、過去にハンガリーやスロバキアではなく、ここに戻ってくるべきではなかったのかとずっと考えていたこと。

子供ならまだしも、大人になって泣くような人間には絶対になりたくなかった。
情けをかけられたい訳じゃない。
同情されたいわけでもない。
ただただ、約束を守れなかったことを謝りたいだけだなのに、それが泣いたら最後、全てが許されてしまうような気がして、卑怯な気がしていたのだ。
だけどもう自分でも訳が分からないくらい感情が溢れて止まらなくて、止めどなく溢れる涙を、マネージャーと二人しかいない狭い応接間で馬鹿みたいに流し続けた。
自分でもちゃんとした英語で伝わったか分からなくなっていたけれど、それでもマネージャーは28歳の泣きじゃくる自分の英語を遮ることなく、最後までしっかりと聴いてくれた。
そして言いたいことを全て伝えたあとに、マネージャーは、

「昨日はもう歴史だよ。前を向かないと明るい未来は作れない」

と言った。
明るい未来を作るためには、幸せになりたいと願うこと。そのために、今を笑って過ごすこと。
君は何をすれば笑って過ごすことができる?
そこまで付け加えるとまるで自分の言葉を待っているかのように、マネージャーは口を閉ざした。
そのマネージャーに対して、頭で考えるよりも先に言葉が胸の底から飛び出した。

「サッカーがしたい」
「なら半月板の手術をして、またうちに戻ってくれば良いじゃないか」

まるで自分の口にから飛び出た言葉を予測していたかのように笑うマネージャーを見て、止まっていたはずの涙の堰が、再び決壊した。

恐怖の根源

用具室

6月13日、確かに自分は引退を宣言した。
我ながら驚くほど呆気なかったが、だけどもうどうしようもないと思った故に出した答えだった。
何度も言うように安易に下した決断ではない。
これ以上続けることができない、ここが自分の終着点だとハッキリと自覚したからこそ、辞める選択を選んだ。
あの時は怪我を治して再起できるほどの力がもう自分には残されておらず、怪我を乗り越えてピッチに立つ自分の姿が微塵も想像できなかったのだ。

そのはずだったのに、デュッセルドルフに訪れて、難しいチャレンジを成功させたケルンの夫婦に会った時に、初めてあの日の決断に迷いが生じた。
沢山の人が引退を決めた自分に対して、「お前はほんとサッカーだけは真剣にやってきたと思う」と言葉をかけてくれた。自分はそう思わなくても、側から見れば自分は本当にサッカーに真剣に向き合っていたのかもしれない。

だけどデュッセルドルフを訪れて、無限大な夢に向かう19歳のサポート選手、今でも情熱を持ってサッカーに携わり続けるかつてのドイツ人の旧友たち、そして夢を実現した夫婦たちを前にすると、自分が本気で頑張ってる人たちから「本当によく頑張ったね」と言われるような人間だとは到底思えなかった。

半月板損傷で引退だと言っていたその言葉に、嘘偽りはなかった。ないと思い込んでいた。
でも今となっては半月板損傷は辞めるキッカケとなった最後のピースだったのではなく、何か他に理由があって、半月板損傷を言い訳に、自分はサッカーから逃げ出したのではないかと、そんな疑念が浮かび上がってくる。
自分は何が怖くて、サッカーから逃げ出したのか。
デュッセルドルフでは見つからなかった本当の理由の存在に、ようやく気付いたのは3年ぶりに訪れたポーランドでのことだった。

期待を裏切ること

ロッカールーム

「自分は大好きなサッカーで、これ以上誰かを裏切るのが怖かったんだと思う。」

有難いことに、セミプロと呼ばれる額だったり、はたまたサッカーだけで生活できるプロ契約だったり、自分はこれまでに大好きなサッカーをプレーする対価としてクラブからお金を頂いてきた。
それはプロ選手と呼ぶにはあまりに安い金額なのかもしれないけれど、それでもお金を貰えるか否かで線引きをするならば、おそらく自分はプロと呼ばれる人種にカテゴライズされ、これまで海外でサッカーをすることができていた。
プロ選手としてお金をもらう以上、サッカーは仕事になる。たとえそれがどんなに低い額でも、1円でもお金を貰う以上自分は120%の力でプレーするのが当然だと思い、これまで全力でやってきたつもりだった。
だけど、自分はその期待を幾度となく裏切ってきてしまった。
ポーランドではプロ契約をしてもらっていたし、スロバキアでも実は少しだけお金を貰っていたのに関わらず、怪我で全くプレーをすることができなかった。
チームの人たちは皆、「怪我はサッカーにはつきものだから」と言ってくれたけど、それでも自分は大好きなはずのサッカーで、大好きな人たちの期待を裏切ってしまってきたことが、ずっとずっと許せなかったのだ。

自分がプロと名乗るほどの選手だとは思わないし、お金のためにサッカーをやってきたわけでもない。
だけど、サッカーでお金を稼ぐことが誰でも出来ることではないことも理解していた。
1円でも稼ぎたいのにアマチュア契約しかしてもらえない選手を沢山みてきたし、現に自分はこれまでそういった選手たちと競い合い、押し退けて契約を勝ち取ってきた。

お金をもらってサッカーをすることができる環境が当たり前ではないことに気付いていたからこそ、どうしても大勢の人の想いと好意を踏み躙ってきたこれまでの自分が、許せなくて許せなくて仕方がなかったのだと思う。
自責の念に潰されそうになって、自分は逃げ出したくなった。
だからあの日、サッカーを辞めると言ったのかもしれない。

スタートリップ

撮影:マネージャー

翌日、マネージャーと共にコロナ禍で亡くなったスタッフの墓参りに行ってきた。
前日の夜に降った大雨が嘘なように、真っ青な青空が広がる空の下でかつてお世話になったスタッフと、決して望んでいた形ではなかったけれど、再会できたことに感謝し、そして3年前のサポートにもう一度だけお礼を伝えさせてもらった。
その後マネージャーから誘われ、とあるショッピングモールの喫茶店を訪れた。
何も聞かされずに着いて行ったけれど、そこは自分がポーランドに来たばかりの時に、マネージャーとオーナー、そして亡くなってしまったスタッフと初めて会って、話をした場所だった。
3年前と同じ場所で、マネージャーは懐かしい話を沢山してくれた。
かつて共にプレーし、今はクラブを退団してしまったチームメイトたちが今どこでプレーしているのか、3年前の出来事や、自分がいつの間にか忘れてしまっていたエピソードなど。
前日もそうだったけど、きっとマネージャーは意図的に自分にとって思い入れのある場所を回って、思い出話をしてくれたのだと思う。
面と向かって引き留めることはしなかったものの、少しでも過去の思い出に触れて、考え直してほしいと思っていたのかもしれない。
その遠回りの優しさに気付いて、やっぱりマネージャーの言うように直接会って話ができてよかったなと、心から思った。

街を離れる前に最後に無理を言ってもう一度クラブハウスに連れて行ってもらって、そこで少しの間だけ1人の時間を過ごさせてもらった。
3年前にポーランドで聴いていた曲を選んで、3年前と同じ場所に立って、物思いに耽る。
夢を追いかける、困難に屈しない、当時はそんな前向きな曲ばかりを聴いていたため、どうしてもサッカーを辞めてからは聞く気にはなれなかった。
だけど、不思議と今はもう聴きたくなかった曲たちも今はもうすんなりと聴けるようになっていた。
あの時に好き好んで聴いていた曲は沢山あるのだけれども、その中のとある曲の歌詞の一部を借りて、この時自分が感じた気持ちを代弁したいと思う。

目が覚めると頬に残る 涙の後に苦笑いして
窮屈だと思ったくせに 都合良く何度も夢に見る
捨てたモノ 置いてきたモノ まだ果たされないままの約束も
一つ一つが私を作るから 躓く度にふと思い出す
名前のない歌を唄う 立ち止まる人 小さな拍手
窮屈だと思った場所が 今も私を守っている

スタートリップ(唄:寺川愛美)

窮屈で息苦しくて、だけど飛び出してから初めて故郷に自分が支えられていたことに気付く。
スタートリップは遠く離れてしまった故郷に想いを馳せた、そんな曲だった。

若干のシチュエーションは違えど、3年ぶりにポーランドに帰ってきて同じ場所に立って、自分もどれだけこの地を愛していたのかを再認識することができた気がする。
これまでにドイツ、オーストラリア、ニュージーランド、ポーランド、ハンガリー、スロバキア、合計6つの国でプレーしてきて、ポーランドに来た時も無限大な夢への道半ばで、この場所は今後のステップアップの場になるはずだった。
ここはあくまで通過点に過ぎず、「活躍してもっと良いクラブに……」といった、悪く言えば今後の踏み台にとしか考えていなかった。
ポーランドの中でもだいぶ僻地に分類されるこの街は、自分がサッカーをしていなければ、そして4年前にクラブが自分に興味を持ってくれなければ、絶対に訪れることがなかった場所だった。

だけど世界中を回ったこの旅で、縁もゆかりも何もない、踏み台としか考えていなかったポーランドのこの小さな小さな街のクラブに魅了され、いつしかこの街が自分にとっての第二の故郷になっていた。
6月13日に引退するとnoteに書いた時、夢が全て叶わなかったことも含めて人生でありサッカーなのだと記したけれど、この街のクラブがサッカーから逃げようとしていた自分を連れ戻してくれたのも、それもまた人生でありサッカーなのかもしれないと思う。

上手くいかなかったことも、果たせなかった約束も、マネージャーが言ってくれた歴史になった過去の日々も、寺川愛美さんのスタートリップの歌詞を借りるのならば、今の自分を形作っている大切なこと思い出の一つなのだ。
だからその自分の一つ一つから逃げるのではなく、向き合えるように。
初めて自分が逃げていたモノに気が付けた時、もう一度この街のためにサッカーをしたいと強く思った。

訣別ではなく、新たな旅の始まりへ

旅は続く……

マネージャーと別れる時、思い出深い場所に沢山連れて行って、懐かしい話を沢山してくれたとても楽しかったと感謝を伝えた。
だけど、楽しかったからこそ、もっともっとここで思い出を作りたい。だから手術をして完治すれば、必ずまたここに戻ってくる、とも。
マネージャーは嬉しそうに、だけどやっぱり変わらない優しい笑顔で笑って、「待ってるよ」とだけ言って最後に握手をして別れた。

ワルシャワで向かう電車の中で監督にも連絡をしてした。
監督もまたマネージャーと同じように、クラブの扉は自分に対して常に開かれていると言ってくれて、改めてこのクラブの人たちの温かさを感じ、胸が熱くなった。

実際問題、半月板損傷はかなり深刻な怪我でサッカー人生を大きく狂わすモノだ。
当初はあまり損傷部分は深刻ではないと言われていたけれど、日に日に膝が痛みを感じているのだから状態はあまり良くないのだと思う。

おそらくだけど、これまでのようにサッカーをするには手術をしないといけない。
だけど手術をしてしまうと、前のパフォーマンスを取り戻せるようになるかは全く分からなくなってしまう。
特に自分のようにアジリティとかスピードに頼ってきた選手にとっては、半月板損傷は仮に手術が成功してもかなり影響を受ける深刻な怪我になるケースが多いのだ。

半月板損傷をして仮に復帰したとして、自分は30歳を目前。
その時の自分に、一体何ができるのか。

それを承知の上で選ぶ現役続行の道は、辞める道よりも遥かに覚悟を要する道になる。
きっと見知らぬ国に一人で行く時よりも、それこそサッカーを辞めると決断した時よりも、何倍も大きくて相当な覚悟が必要とされる茨の道になるに違いない。
だけど、遅かれ早かれいつかはサッカーが出来なくなる日がくる。
その日に、今回は言えなかったけれどデュッセルドルフで再会した人たちに胸を張って「頑張りました!やりきりました!」と言えるようになるまで、最低限サッカーを続けたいと思う。

デュッセルドルフとビェルスコ=ビャワを巡ったこの夏の旅は、自分にとって『サッカーと訣別する』ための旅になるはずだった。
だけど、結果として『サッカー愛を再確認する旅』になってしまった。
でもまぁ、それはそれでいいのかもしれない。
ワルシャワから日本に向かう飛行機の中で、このnoteを書きながら、自分はそう思っている。

stayしがちなイメージだらけの頼りない翼でも

クラブがプレゼントしてくれたグッズたち

前回のnoteでも書いたが、無限大な夢を終えて自分を待っていたのは、とんでもないほどに『何もない世の中』だった。
だけどあの時に紹介した和田光司さんのButter Flyの歌詞は、その後こう続いていく。

無限大な夢の後の 何もない世の中じゃ
そうさ愛おしい思いも負けそうになるけど
stayしがちなイメージだらけの頼りない翼でも 
きっと飛べるさ

Butter Fly(唄:和田光司)

蝶は鳥のように空を優雅に舞うことはできない。
なんでも時速9kmでしか進むことができないらしく、空を舞う他の動物に比べたら蝶はひどくちっぽけな存在なのだ。
だけど蝶は他の動物が持っていない鮮やかな羽を持っていて、その羽を精一杯に広げて、空を舞う。
そして蝶にしかできない生き方で、自分の役割を全うしている。
これから先、自分がもうトッププレイヤーになることはない。悲しいけれど、これはもうはっきりと断言できる。
Jリーグ逆輸入も、W杯出場もCLも、デュッセルドルフにいた頃に掲げていた夢の殆どは叶わなかった。 
だけど、その夢を追う旅の途中で立ち寄ったポーランドで見つけた新たな夢を、今は叶えたいと思う。
それは当時の夢を鳥に例えると、まさに蝶のようにちっぽけな夢なのかもしれない。
それでも、自分はこの頼りない翼でどうにかもう一度、夢を叶えるために挑戦したいと思う。

最後になりますが、新たなシーズンの開幕直前の忙しい中で自分のために時間を割いてくれたクラブのマネージャー、そして重ね重ねになりますがデュッセルドルフで再会した友人達、自分を信じてくれた選手とそのご家族、この場を借りて深く感謝申し上げます。

引退撤回と聞いて「やっぱりな」と思う人もいれば、「結局やんのかよ」と思う人もいるかもしれません。
本当にその通りだと思いますし、中には有難い餞の言葉をかけてくれた方もいて、本当に振り回してしまった気がして非常に申し訳ないと思っています。
でもドッキリでもなんでもなくで、あの時に決めた決断に嘘はありません。
気が変わった、といえば軽く聞こえるかもしれませんが、デュッセルドルフとビェルスコ=ビャワを訪れて、たった2週間かもしれないけどその時間は自分の決断をひっくり返すほどの大きな意味を持つ時間でした。
その時間を過ごしたからこそこの結論に至り、逆を言えばデュッセルドルフに行かなければ、マネージャーが「直接会って話そう」と言わなければ、きっとそのまま辞めていたと思います。

本当にこのタイミングで8年ぶりにデュッセルドルフに戻り、ビェルスコ=ビャワで愛するクラブの元を訪れたことに大きな意味がありました。
普段は神様なんて全然信じない人間ですが、この不思議な巡り合わせは偶然だと思えないだけに、今ばかりは感謝したいと思います。

実は昔の恩師や彼女、その他の自分のことをよく知っている知人たちは、あの時の引退宣言を真剣に受け止めていませんでした。笑

「どうせそのうちすぐやりたくなって、撤回するよ。君がサッカーから離れられるわけがないじゃないか」

そんな言葉を口を揃えて言われていました。
あの時は「なんで真剣に聞いてくれないんだ」って思ったけど、もしかしたら自分自身よりもよっぽど深く自分のことを理解していたのかもしれませんね。
結果論ではありますが、確かにその通りになったなと思います。

ですが30歳を目前にサッカーを続けることがどれだけ今後の人生においてリスキーなことなのかも、十分に分かっているつもりです。
言ってしまえば決して長くはない残りのサッカー人生で、大怪我から復帰したところでサッカーで大金を稼げるわけではないのに、やる意味があるのかと問われれば正直あまりないとしか言えません。
長年付き合った彼女とも早く結婚してあげたいし、親にもちゃんと親孝行したい。
こんな不安定な生活をしていたらそれらが難しいことくらい、頭の悪い自分でも理解していますし、それを承知でここでサッカーを続ける道を選ぶのは、生半可な気持ちじゃ到底できることじゃありません。
だからこそ引退宣言時よりも何百倍もの覚悟を持って、この場で引退を撤回します。

サッカーを続けます。
ポーランドのクラブのために、そして自分が人生の全てを賭けて挑んだサッカーでの挑戦を納得できる形で終わらせられるように。

早速トレーニングに……と言いたいところですが、当然手術を先にしないといけないので暫くはサッカーはできそうにありません。
半月板損傷の手術は早くても復帰までに半年ほどだと聞いています。
ざっと見積もった期間は6〜9ヶ月、ポーランドに戻るのはちょうど一年後くらいになるかもしれません。
2023年の夏、29歳になった自分がどんな選手になっているのか。
不安半分楽しみ半分ではありますが、自分なりに頑張っていきたい思います。

あまり何度も言い過ぎると薄っぺらくなる気がしますが、旅の最後は自分に巡ってきた不思議な縁と、世界中の様々な国で数えきれないほどの素晴らしい出会いと経験をさせてくれたサッカーに、感謝したいと思います。
サッカーが紡いでくれた縁に、今回も助けられました。
本当に素敵な出会いばかりに恵まれて、自分は幸せ者です。

サッカーは素晴らしい!

それでは、また!

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