おじいちゃんの存在感
朝の連ドラ「おかえりモネ」にはまっている。
海外ドラマと時代劇は好きなのだが、元来、ミステリーを除いて現代モノを見続けるのは苦手だ。
にもかかわらず、「モネ」を見るために早起きして時間を調整するようになった。
仕事を辞めたら、朝の殺伐戦争がなくなり余裕ができたのは実感している。しかし、どうしてここまで「見なくちゃ感」があるのか、自分でもよくわからない。贔屓の俳優が出ている訳でもないのに。
今週、大型台風の襲来を前に、すーちゃんが汐見湯のおじいちゃんとおばあちゃんに、浸水に備えて2階へ荷物を運ぶのを手伝うと申し入れる場面があった。
そのとき、すーちゃんは、
「おばあちゃんたち…」
と、話し掛けていた。
その場面にはおじいちゃんもいたし、なんならおじいちゃんの方がおばあちゃんよりも一歩前にいて、すーちゃんに近い位置にいたのに。
これを見て、以前母が話していたことを思い出した。
母は小学校の養護教諭だった。
夏休みや冬休み明けに、子どもたちに休み中の話を聞くと、十中八九、
「おばあちゃんの家に行ってきた」
と、答えたのだそうだ。
だからといって、おじいちゃんがいない訳ではない。夫婦健在でも、子どもたちにとってそこは圧倒的におばあちゃんの家になるらしい。調べた訳ではないが、いまの子どもたちにとっても同様のような気がする。
そこで自分を省みた。
父方の祖父母は同居していたので、対象は母方の祖父母のみとなる。
やはりワタクシも、おばあちゃんの家と言っていた。母が「おばあちゃんの家に行くよ」と、言っていたのだと思う。
どうして「おじいちゃんの家」は少数派なのだろう。
小学校低学年だと祖父母はまだ現役だ。夏休みに長期間滞在しても、おじいちゃんは週末しかいっしょに過ごせないからだろうか。
それなら、夫婦共働きや家業を営む祖父母の場合、「おじいちゃんの家」のパーセンテージは上がるのだろうか。
そんなことをつらつら考えていたら、窓の外から近所の子どもたちの声が聞こえてきた。
あの子たちにとっても、祖父母の家はおばあちゃんの家なのかな。
世の中のおじいちゃん、がんばれ!
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