見出し画像

ことばの話 ~手のくるぶし

 以前、「人間の骨の数は、成人よりも赤ちゃんの方が多い」という話を聞き、数を調べたことがある。

 赤ちゃんのときは別々だった骨が、成長に従って周囲の骨と一体化し、最終的に成人には約206本の骨があるという。

 では、赤ちゃんの骨は何本かというと、なんと約305本とか。約100本も減る(というか、くっつく)のか。人体ってすごいな。
 それにしても、「約」っていうところがおもしろい。年齢や成長状況により数が異なるってことなんだろう。ワタクシには、現在何本の骨があるのだろうか。

 ところで、遺骨ではない骨の数え方って、本でいいのだろうか。頭蓋骨のような骨は「本」っぽくないから、「個」でもいいのかな。
 この助数詞というのは、日本語学習者にとっても日本人にとってもけっこうな難敵だと思うが、ワタクシはここに日本語の奥深さが潜んでいるような気がして、好きだ。

 話が逸れてしまった。
 先ほど「頭蓋骨」と書いたが、これを「とうがいこつ」とも読むと知ったのは、ワタクシの歴史の中では最近の方だ。「ずがいこつ」しか読み方はない、とずっと思っていた。

 「とうがいこつ」は解剖学の用語らしい。
 サラリーマン時代に医療系の仕事に携わったことがあり、ワタクシはそのときにはじめて知った。たぶん遅すぎだっただろう。日本語に人一倍興味を持っているつもりなのにも関わらず。

 ふと、この200なり300なりの骨には、すべて名前があるのだろうか、という疑問が沸いた。
 ネットでざっと調べてみたところ、やはりすべて名前があるようだ。医師を始め、医療従事者を目指す人々の努力の一端が見える。
 ミッション系の学校で、旧約聖書の書名を最初から通しで暗記させられたことを思い出した。思い出としては、どうしても「覚えた」ではなく「覚えさせられた」になってしまう。もっとも、骨の名前を覚えることは、それよりも遥かに実学で役に立つことは間違いない。

 手と手首の境目のところに、少しぽこっとした骨の突起がある。ワタクシはそれを、「手のくるぶし」と呼んでいるが、くるぶしは踝と書くので、「手のくるぶし」自体が妙な日本語だと思う。

 踝自体は通称で、医学的には内側を内果、外側を外果というようだ。内側と外側で、別々の骨(脛骨と腓骨)の一部分であるとのこと。

 では手はどうか。この突起部分に呼びやすくわかりやすい通称はないのだろうか。

画像1

 調べてみた。
 正式名称は、茎状突起。しかし、これは「細く尖った突起状の骨」のことで、側頭骨にも第三中手骨(手の中指の骨)にもあるそうだ。
 「手のくるぶし」の場合は、親指側が橈骨茎状突起で、小指側が尺骨茎状突起という。

 でも、日常会話にはまったくそぐわない。
 「右手の橈骨茎状突起のあたりが腫れちゃって…」なんて言わない。言っても、わかってくれる人は少数だ。橈骨と尺骨だって、どれだけの人が知っているか。

 そう考えると、「手のくるぶし」はなかなかよい呼び名ではないか。誰にでもわかる。

 いっそのこと、手足に関わらず、この突起を「くるぶし」と呼べばいいのにと思う。手のくるぶしと足のくるぶし。わかりやすい。
 そうだ、先ほど「内果/外果」と書いたが、これらは「ないか/がいか」とも「うちくるぶし/そとくるぶし」とも読む。つまり、「果」がくるぶしということだ。

 であれば、「手の果/足の果」でよくないだろうか。
 もしくは、足のくるぶしは踝なのだから、捰に手のくるぶしという意味を与えてしまえばいいのに(暴論)。手偏に果の字があるのだから。

 ドイツ語では、一般人がどんどん新語を作ると聞いたことがある(朧げな記憶なので、誤りかもしれないが)。
 日本でも、国字をどんどん作れば、表現の幅が広がる可能性だってありそうだ。

 なんてことを考えていたら、タモリさんがMCのTV番組を思い出した。

 骨の数からスタートしていろいろ考えていたら、まとまらなくなってきた。今回はここでお終いにする。

 今度整骨院に行ったら、整骨師さんに、一般的には成人の骨は何本あるのか聞いてみよう。約がつくとムズムズするから。


興味を持ってくださりありがとうございます。猫と人類の共栄共存を願って生きております。サポート戴けたら、猫たちの福利厚生とワタクシの切磋琢磨のために使わせて戴きます。