ないものねだり
その場にないものというものが魅力的に映ってしまって、今ここにある大切
なものが霞んで見えてしまう。
自分にはそういう考えがないということで、なんだか惹かれてしまい、もうそれしか見えないというくらいに真っ直ぐにそれを見る。
そこに、目の前にあるものが実はとても強く意味のあるものなのかもしれないのに。
それは自分の中でもあったことだった。
小学生の時、外で遊ぶのが主流ではあったけど、ゲームもほどほどにあったので、家の中でゲームをしたりすることもしばしばあった。
ある時、学校で友達と話をしていた時のこと。
『もし次のテストで点数が悪かったら、ゲーム没収されちゃうよ・・・』
ゲーム没収・・・?
なにそれ?
自分にとってはなんだか魅力的に映った。
結果として、没収されていたのだが、自分はそれがずっと頭の中に残っていた。
そういうよくわからないルールみたいなものに家族的な魅力を感じていた。
母に言ってみたことがある。
『テストの点数悪かったらゲーム没収して自分のわからないところに隠してよ!!』と
割と真剣にそれを言った記憶がある。
母からの返事は
『あ、うん。・・・・・・・・・・・・別にどうでも良くね?』
変な人
なにそれ
ルールとか決めてくれよって思った。
今思えば、そんなルールとかがなかったから今の自分の価値観が形成されているから、とてもありがたいことではある。
その当時は、ルールとかそういうものに憧れがあったり、そこに家族的な何かを見出していたのかもしれない。
箸の持ち方も教えてもらったりはなかったし、朝のおはようも寝る前のおやすみも、なにもかもは自分が勝手に生活していて、みんなやっているものなんだなと知るような感じ。
だから、その当時から周りの人たちの行動をよくみていた印象。
そうでもしないと、みんながやっていることを当たり前にできなくて恥ずかしいと自分なりに感じていたっぽい。
他の友達が先生に怒られていたら、こういうことをしたら怒られちゃうから気をつけようとか、反面教師が自分の中での決め事だったのかなと。
主体的に考えるまではいかないにしろ、少しは自分で考えて生きるということを身につけていたのかもしれない。
それでもなお、自分にないものに魅力を感じてしまう。
まだ自分の持っているものの価値に気づけていなかったり、しっかりと目を向けるということができていないのかもしれない。
無いものはいくら見ようと思っても、望んだとしても無いし、そこに固執していて今この瞬間が見えなくなるなら、そこに強い魅力はないとも思う。
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