2022/11/1 文化資本は図書館で

 よく地元の図書館に行く。目的の大部分は子どもたちの絵本を借りにいくためだが、時間があれば雑誌をながめることもある。文芸や経済雑誌の目次をさらって、芸術雑誌の写真を眺め、トレーニング系の雑誌をパラパラするだけだが、とても満ち足りた時間を得られる。
社会学者ピエール・ブルデューは「文化資本」という概念を提唱したが、この文化資本を形成するのに図書館というのはうってつけの場所ではないかと思う。(もちろん私に文化資本が備わっているという意味ではない。)ただ、図書館にたどりつくまでに文化資本が必要であるという点で、さてどうしたものかと悩んでしまう。
文化資本とは、学歴や、文化的素養といった個人的資産のことを言うが、私がここで特に推したいのは、ブルデューのいう「身体化された形態の文化資本」である。言葉の使い方や、センス、美的傾向などのことをさす。
漱石の『草枕』では、主人公の画工が、和尚や宿の主といっしょに茶をする場面が出てくる。その際、杢兵衛の茶碗や、青磁の皿や、端渓の硯や、山陽の愛蔵したという硯の蓋などが出てくる。画工は和尚や宿の主の聞き役でもあるが、しっかり自分なりの批評も加えている。もちろんエリート中のエリートである漱石にそれらの素養があったからこそ書けた場面だが、こんな場面を書いてもリアリティを保つことができるほど、「草枕」発表当時(明治三九年)の知識人には、芸術方面への素養があったということだろう。それとも村上春樹のジャズのように、読み手はなんとなくかっこいいものとして受容していたのだろうか。
いずれにしても、芸術方面のあまりに細かい知識や美的センスのようなものは学校では教えてくれることはなく、各家庭で折につけ涵養していくしかない。
その際、活用してほしいのが図書館なのである。あれだけの膨大な知識を無料で読み放題、眺め放題という施設は奇跡である。「文化資本格差」という言葉もあるようで、そもそも本を読まない、画集を眺める意味が分からないという人々がいる。それでも、美しい言葉を知り、美しい絵画を見て、一人の人間が一生をかけた作品を眺めることで得られるものは大きいということは強調したい。
知らずに通り過ぎてしまうにはもったいない、あまりにも美しいものが世の中にはたくさんあるということを、若い人たちに伝えたいと思う。


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