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映画「カムイのうた」を観て思ったことつれづれ

『ゴールデンカムイ』の漫画を読んですっかりアイヌ文化にはまってしまったのが2年前。
そこから『アイヌ神謡集』からはじまり、それの著者である知里幸恵についての本も読み、去年は北海道旅行までした。
アイヌ文化だけではなく、アイヌの人々が和人から受けた迫害についても、ほんの少しかもしれないが学んできた。

そんな私にとって「カムイのうた」は絶対観なきゃの映画で、それなのに公開終了間近の本日、やっと観に行った。

映画は知里幸恵の生涯をベースにしたものだが、登場人物の名前は変え、設定もちょこちょこ変えたものになっている。
北海道のすばらしい景色や気高い動物たちの映像と、それと対比するかのような苛酷なアイヌの人々の苦しみが描かれている。
日本人として、特に和人として、観るべき映画だと思う。

が、私がこの映画に満足したかというと、誤解を恐れずに言うと、残念ながら違った。
アイヌの人々が受けた数々の迫害を語り継がなければいけないのは分かるが、あまりに詰め込み過ぎな気がしたのだ。
知里幸恵の時代は明治の終わりから大正の話なので、その時代にフォーカスするだけでも十分、その苛酷さが分かるはずだが、明治初期の話も出てきて、確かに伝えるべきだけれどもそれでは物語がぼやけてしまうと思ったのだ。

また、個人的にはアイヌの人々にとって最大の苦難は、突然土地を取られたことだと思っている。
これは本当に許されないことであって、それによってアイヌの人々は自由に猟ができなくなってしまい、慣れない農耕を強いられることになったし(しかも不毛な土地を与えられた)、強制移住をさせられたケースもある。
猟ができないというのは、和人に農作をするなということで、鮭を食べるなというのは、和人に米を食べるなというのと同義である。
それなのにその部分があまり描かれておらず、ただ差別されている。
因みに、知里幸恵の実家でも土地をめぐるトラブルが発生していたと記憶しているので、そこは取り入れられたのになと思う。

もし私がこの映画を製作したとしたら、知里幸恵の生涯にもっとフォーカスしていたと思う。
つまり明治初期のシーンとして出てきた漁場への強制労働のシーンはカットするし、墓荒らしのシーンはカットする。

その代わりに知里幸恵が受けた差別をもっと具体的に描き、土地の問題、アイヌの重要な文化である狩猟の禁止を描くだろう。
その中で知里幸恵モデルの主人公テルがアイヌとしての誇りを失いかけていくのをもっと丹念に描く。
そこから金田一京助モデルの兼田教授の熱い言葉によって、アイヌは恥ずべきものではないと、同朋へ訴えるまでに誇りを取り戻していくところを描くかなと思う。

少し難しいところだけれども、テルの死はあまり長々と描かないかも。なぜなら19歳で亡くなるというのは、それだけで大きな悲劇なので、それまで描かれていたアイヌ民族としての悲劇の印象が薄まってしまっていた気がしたのだ。
もしくは、テルの許婚一三四がテルの遺体と対面するシーンは、慟哭するだけではなく、テルが書いた『アイヌ神謡集』の序文を読んで、同朋たちの誇りを取り戻すという意志を引き継ぐ決心をする、とするとか。

と妄想しながら、訴えるメッセージのある物語は、削っていくのはことさら難しいのかなと感じた。
個人的には、『ゴールデンカムイ』を楽しむのと同時に、こうしたアイヌの人々の迫害の歴史を知る必要があると思うので、こうした映画ももっと広まっていってほしいと思う。
そのためにはもう少し、万人に分かりやすく整理されていたらいいのになという想いから妄想につながったのである。

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