見出し画像

ポストの思い

ポストに投函するなんていつぶりだろう。

昔、大学時代に1年間くらい、文通をしていたことがある。
相手は高校時代同じクラスだった女の子。
僕自身、彼女のことを女性として意識したことはなかったし、事実として交際関係に発展していない。
恋文というわけではなく、とある理由で文通は始まった。

彼女は鬱病だった。

彼女はもともと高校時代に、親しい人を亡くした経験があった。そして大学進学と共に親元を離れ東京でひとり暮らしをしたことがきっかけで精神的な支えが必要となった。
彼女は休学し精神科医に通っていた。
鬱病を治療する過程で、主治医のすすめにより、日記などで主観的に記録をつけることを始めた。
それが僕との文通だった。

文通というのは正しい表現ではないかもしれない。
正確にいうと、彼女が手紙を僕のもとに郵送し、それを見た僕がラインで返信していた。
今考えると僕はなんて阿呆なことをしていたのだろうと思う。
彼女はすぐに繋がってしまうネットでの連絡手段ではなく、「既読」の概念すらないアナログな、リアルなものを求めていたのではないだろうか。

彼女との文通(?)は1年ほどで自然と終えていた。
曰く、心の中に泳いでいる魚を逃がすことができたらしい。


話は変わって、今日ポストに投函してきた。
婚姻届を田舎の両親に証人としてサインしてもらうために。

ポストに投函する時は祈るような気持ちだった。
それは無事に届くようにという祈りでもあり、
どうか父親が住所欄の記入を間違えないでくれという祈りでもあった。

当時の文通の彼女は僕に手紙を送る時、どのような気持ちだったのだろう。
祈るような気持ちだったのだろうか。僕にはわからない。
ただ彼女を想像すると、僕の行動の浅はかさが恥ずかしくなる。
送信ボタンを押せば即時に相手に届くことは便利ではあるけれど、なにかが失われているのかもしれない、と反省した。


今日初めて気付いたが、ポストには必ずPOSTと書いてある。
そしてこれは意外と稀なことであることにも気付いた。

車にしてもフライパンにしても、世の中のほとんどのものは、そのもの自体に名称は書いていない。(「入口」とか、行動を伴うものには書いてある傾向にあるとは思うが。)
それはなぜか。それは大抵のものは、ものの見た目だけでその目的がわかっているから。
車に乗れば動力で遠くまで移動できて、丸腰で近づくと危ない。フライパンも調理器具であることは誰でも分かる。

ポストは?
赤くて可愛らしい見た目のポストは見れば誰でも分かるものであるはずなのに、必ず「POST」と書いてある。

飾りとして置いてあるものと郵送用のものと間違えないように、とか色々理由があるのかもしれない。
けれど僕は、

「ポストに投函する時の人々の思い、祈り、というものは、手紙が普及し始めたときから、便利になった今でも変わらない、人間みなに共通しています。」

という、そんなポストからの健気なメッセージに思えてならないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?