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「見られる用文化」のはざまで

「見られる用文化」

という言葉を提唱したいと思いまして。

こういうことを考え始めたきっかけは、以前の記事に一度書きました。

「見られる用じゃない」、ただの自分になる

しかしその後も、考えれば考えるほどに、世の女性が直面させられているジェンダー問題の根っこには、ほぼこの「見られる用文化」の問題がある気がしてきたのです。

「見られる用文化」とはなんぞや?ということを説明するにあたり、まずはこの画像を見ていただきたいと思います。

これは、以前ジェンダーに関する勉強会をした時に私が資料に使った画像なのですが、Googleで「女の子」というワードで画像検索した検索結果をそのままスクショしたものです。

これだけ見ても違和感を持たない人も多いかもしれません。では一方で「男の子」の画像検索結果を見てみると、こうなります。

これが、現代日本社会において男女が置かれている非対称な現実です。
これらの画像を見比べた時に、皆さんは何を思うでしょうか。
私は、女性は「女の子」として生まれついたその瞬間からどれほど「見られる用」(客体)になることを強制されているのか…という思いにかられます。

ほとんどすべての女性は多かれ少なかれ、この「見られる用文化」に関わらざるを得ず生きているのではないかと思います。
ただ、その度合いや関わりのあり方は人によって異なります。

家庭の中で「見られる用文化」への適応を強く求められた人もいれば、逆に社会における「見られる用文化」の影響から家族が守ってくれた養育環境もあるでしょう。
「見られる用文化」をしっかり内面化し自分の価値観として生きてきた女性もいれば、どうにもその文化にハマれなかったり、「見られる用文化」の世界で自分の価値は低いと見積もり、絶望感を持って生きてきた人もいるでしょう。

そんな中で、最近話題になっている『ちょうどいいブスのススメ』という新ドラマ。原作は、お笑いコンビ「相席スタート」の山﨑ケイさんによる同名のエッセイだそうです。

こちらはその反響を受けたまとめ記事です。
ねとらぼ - 夏菜、新ドラマで“ちょうどいいブス”役に挑戦 まさかのキャスティングに「完全に美人じゃん」とツッコミ殺到

夏菜さんが演じるのは、とある商社の総務部に勤務する“自己表現下手くそブス”
美人ながら協調性が全くない“融通の利かないブス”木原里琴を女優の高橋メアリージュンさん、自分がブスであることを自覚しつつも、恋人がいることを盾に傍若無人な振る舞いをする“開き直りブス”の皆本佳恵を女優の小林きな子さんが演じます。

なんというか、結局容姿がどうであるかにかかわらず、女性たちは皆総じて自虐的であることを求められるんですね…と思ってしまう。
それぞれに個性的な一人ひとりの人間であるはずの女性たちが、「ちょうどいいブス」に丸められていくのかと思うと、胸が痛い。
っていうか改めて「ちょうどいいブス」って、人の尊厳を真っ向から踏みつけにする言葉だな…

でも私は、山﨑ケイさんがとんでもなく酷い人でこういうことを言っているとは感じられないんです。
これが、この人が生きてきた「見られる用文化」の世界で、これがこの人が見出した生存戦略なんだな…と思ってしまうのです。

「自分がブスであることをわきまえなければならない」という処世術は、自分が「見られる用である」という価値観を根強く内面化していなければ出てこないものです。
自分が自分であるだけで価値があり、自分らしくやりたいことをやって生きることに人生の価値があるという考えからは、きっと生まれてこないものでしょう。

「見られる用文化」の世界が苦手で、でもその文化にどっぷりの女性たちと付き合わざるを得ない環境にいる女性がよく、「女は陰湿で嫌だ」と言うことがあります。
でも、違うんです。陰湿なのは女じゃなくて、「見られる用文化」が陰湿なんです。

「見られる用文化」は女性たちの中にしかありません。

男性社会の文化性は、絶対的な「見る主体」でいなければならない、というプライドの上に形成されていると思います。「見られる用文化」にどっぷりハマった際の、あの特異な陰湿さを、男性たちは知らずに生きています。そして時には外側から「女は怖い」だの「キャットファイト」だの揶揄します。女性は誰しも多かれ少なかれ「見られる用文化」に関係があり、それぞれの立場で「見られる用文化」のはざまに置かれているというのに。

まずはこの構造に気づき、分析しなければならないのではないか…と考えました。
これから何回かにわたって、「見られる用文化」の実例を紹介しながら考察していく記事を書いていきたいと思います。

(以上全文無料)

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