才能教育は教育革新のコアとなる


才能教育という言葉を聞いたことがある人はどれだけいるだろうか。周囲の人間や自分が当事者であれば、認知しているのは当然だろうが、そうでない人は知っているだけでも教育通の称号が与えられてもいいかもしれない。社会科学の中の教育学の中でも十分にニッチなのだが、その教育学ですらあまり研究対象にしてこなかった、ごく狭いニッチな領域なのだ。

そのニッチな才能教育は、今後、教育のコアとして稼働していく力、磁場を有すると言っていい。それは何故か。ニッチな領域だからこそ、対象の人間のみに対する支援策として限定するには無理があるからだ。

12/13に文科省は「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議(第6回)」を実施した。

その会議資料をここではかいつまみながら、才能教育の可能性に触れたい。

1.才能とは?その概要


才能の要素を普通より優れた能力」、「創造性」、「課題への傾倒」の3要素にまとめた上で、才能ある児童生徒の特徴の1つに認知発達の特性の偏りを挙げ、その偏りが過度になり、特異な才能と学習困難の双方を有する2E(twice-exceptional)について触れ、おおよその特徴をまとめあげる。

2.才能教育のアプローチは?その概要①

①早修 acceleration
既存の教育制度よりも早く学ばせること、言うなれば、以下の例となる。
例:小学1年生で微分を学ぶ

②拡充 enrichment
在籍する学校やクラスはそのままで、取り出して個別のプログラムなどに取り組むこと。

3.才能教育のアプローチは?諸外国の取り組み


諸外国のアプローチも2つに整理している。1つは-取り出し型、もう1つはインクルーシブ型だ。それをさらに国家中心的-学習者中心という軸を加える。例に挙がった国を整理すると以下のようになる。

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4.才能を持つ生徒の状況


アンケート結果からかぎかっこで括られた内容から、学校という場が相当な苦痛となっていることが窺える。

◆学習に関して

・「教科書の内容はすべて理解していたが、自分のレベルに合わせた勉強をすることができず、授業中は常に暇を持て余していた」
・「発言をすると授業の雰囲気を壊してしまい、申し訳なく感じてしまうので、わからないふりをしたが、それも苦痛 で、授業中に自分を見いだすことができなかった」
・「学校で習っていない解法をテストなどで回答すると×にされる事が嫌だった」
・「書く速度の遅さと脳内の処理速 度が釣り合わず、プリント学習にストレスを感じていた」

◆学校生活に関して

・「同級生との話がかみ合わず、大人と話している方が良い。あまり周りに理解してもらえず、友達に変わっている子扱いされる」
・「学校の友達と話すとき、言葉を簡単にしなければ、話が通じ合わない」
・「先生の間違いも気付きやすく、指摘しても先生にすぐにわかってもらえ ず悔しい思いをしている」
・「早熟な知能に対して情緒の発達が遅く感情のコントロールが未熟なので、些細な事で怒られてしまったり泣けてしまったり、他の児童と 言い合いになったりしてしまう」


5.何を検討していくか:時空間を解き放ち、全方位の困難を解消する


 対応策の一番最初に「 授業における教材や指導方法の工夫はどのようなものがあるか。」とある。まず、この検討からやめてみてはどうだろう。この論点整理はあくまで論点整理に過ぎないのだろう。ちぐはぐさが垣間見える。働き方改革が最優先であるのだから、現在の学校教育に才能教育を担う余力はない。学校教育に対する過度な期待がここでも見られる。

とはいえ、
特異な才能のある児童生徒を含めた全ての児童生徒の学びの在り方を考えること

と明示しており、「取り出して」才能ある生徒のみの支援に焦点を置く話ではないことがわかる。この点をもっと世間に周知されなければならず、その上で更に十分な議論がされる必要がある。文科省はここで話を止めるが、それを用意するのも文科省の役割ではなかろうか。現場や国民に匙を投げる程、温められていない。ごく一部のアンテナの立っている人間に届いているだけだ。


今一度触れておく。
「発言をすると授業の雰囲気を壊してしまい、申し訳なく感じてしまうので、わからないふりをしたが、それも苦痛 で、授業中に自分を見いだすことができなかった」

「同級生との話がかみ合わず、大人と話している方が良い。あまり周りに理解してもらえず、友達に変わっている子扱いされる」

これら困難の根絶は2つに尽きる。まずは、時空間を解き放つことだ。
 ICT活用の強みに
「時間や空間を問わずに、音声・画像・データ等を蓄積・送受信でき、時間的・空間的制約を超えること」
があると、この論点整理でも挙げている。ICTを活用すれば、決まったタイミング(時間割)で決まった場所(所属する学校の教室)で決まった内容(年間計画で組まれた厳密なカリキュラム)から、いつでも、どこでも、どんな内容でも学べるような柔軟性のある仕組みへと転換できる。更に一つのクラスに留まることなく、地域、企業,そして研究機関と連携して学んでいってもいいだろう。ただ、そのためには以下の転換が必要となる。

それは履修主義から修得主義への転換だ。現状は履修主義をベースに授業が行われているが、それでは才能のある生徒は、既に知っている内容を年齢で区切られてしまうばかりに、重複履修せねばならず、今一度触れたような状況に陥るリスクを抱えている。
このような状況から抜け出すべく、履修前に理解度テストを実施し、6,7割程の理解度で修得と見なし次のステップへと移るような修得主義を選択肢として組み入れる。
 付け加えると、「飛び級などの『完全早修』には慎重に」と記しているように、次のステップに映るタイミングを年間で区切るのか、それとも単元のようなスモールステップで区切るのかについては議論の余地があるだろう。個人的には修得主義=飛び級という結びつきも、履修主義のみのこれまでの制度の思考回路に汚染されているのではないかと苦言を呈さざるを得ない。
 このような提起を行うと、これまでの学校教育の価値を持ち出そうとする人がいるが、それは安易にとある構造を持ち出していると、ここでは指摘せねばならない。それは履修主義か修得主義かどちらかにせねばならない、統一思想、二項対立思考である。これまでにない制度を導入しようとすると、従来の制度が侵略されると誤解する人間がいる。そうではない。学習者から見れば、選択肢を1つ増やすに過ぎない、そしてその選択が1つ増えることで劇的に状況が変わり、救われる人間がいることは容易に想像つくはずだ。

ただ、ここまでの議論の主な焦点は、才能のある生徒に置かれてきており、そうでない生徒も含めた全体でのバランスはあまり加味されていない。例えば、個人の選好によって履修主義か修得主義かを選ばせてしまうと、個人にとって修得主義がいいとしても、全く学習をしないままずっとその学年あるいは単元に留まる場合が想定される。この状況と従来の履修主義のどちらが良かったか考えた時に後者の方がいい場合がある。とすると、二項対立的にどちらにするということでもなく、従来の履修主義をベースに据え、そのペースよりも早く進む生徒に修得主義をという形も想定されるだろう。そうすることで、これまでの学校教育は全員に対して授業をしてきたが、いわゆる成績上位層への配慮が最低限に抑えられ、下位層に対して手厚く支援するセーフティネットとしての学校という姿が立ち上がる。ただ、これも無限に拡大していく<教育>ではなく、あくまで福祉との連携の中でセーフティネットの網の目を細かくし分厚くしていくことが肝要である。


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