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美しさとは何か

就活中のことだが、とある企業の課題で、美しさについてエッセイを書いたことがあった。
ヒトはなぜ、どのように美しさを感じるのか、説明してくださいといった質問だったと思う。

結論から言うと、私は”自分に足りないものを何かに見出した時”と答えた。

”美しさ”と聞いて最初に思い出すのは、高校の授業でやったミロのヴィーナス像に関する評論だ。
ミロのヴィーナスの両腕は失われているが、失われているからこそ、様々な想像をかきたて、美しいと感じさせる…といった内容だったと思う。

あの評論文がわりと好きだったせいもあるかもしれないが、”失われている”、”欠けている”というファクターは、重要であるように思えた。

エッセイの準備のために「最近どんなものを見て”美しい”と思ったっけ」とじっくりと思い返したのだが、1つしか思い浮かばなかった。
それは…、生理中の経血だった。

なぜ経血を”美しい”と感じたのかというと、経血の鮮やかな赤に惹かれていたのだと思う。
”鮮烈”を体現したようで、じっと見つめるものでもないとわかっているのに目が離せなかった。

なぜ鮮やかさに惹かれるのかというと、それが羨ましいからだ。
私は”鮮やかさ”に”軽やかさ”や”明るさ”に近い感覚を抱く。
どん詰まりにいる自分と対照的で、今の自分に欠けている軽やかさや明るさを経血に見出したからではないか…ということを答えた。

あれから数ヵ月たって、私は自分の仮説に対する確信を深めている。

確信を深めるきっかけになったのは、先週の自分だ。
悪いものばかりが目に付く精神状態にあって、私は”美しいもの”を求めた。

美しいものに触れて、私は確かに回復した。
私がそれらのどこに美しさを見出したかと言うと、雑に言えば”ひたむきさ”だったと思う。

私は最近の自分にはひたむきさが足りないと思っている。
自分に合ったやり方とか、効率よくやるテクニックとか、そんなものを吹き飛ばすような、想い1つで乗り越えて見せようとする、気概のようなものが。

心の膿が溜まって流れ出しているような状態になって、”ひたむきさ”を吸収できるような物語を、私は求めていた。
そしてそれらを”美しい”と感じたわけだ。

私は普段”美しい”という言葉をあまり使わない。
澄み切った空を見て、”きれい”とは思っても”美しい”とは思わない。
規則正しく並んだ数列を見て、”整っている”とは思っても”美しい”とは思わない。

美術館に行っても感動できない自分には、美を解するセンスが無いのだと思っていた。
だけど違ったのかもしれない。

私はただ、”一般に美しいとされるもの”に美しさを感じられないのだ。
その時の自分にとって意味のある美しさ―不足している、求めているもの―以外は、うまく見出せないのだろう。

そう思うと、私にとって”美しさ”とは鏡のようであると思う。
何を美しいを思うかに、その時の自分が何を求めているか、不足しているかが反映される。

心が赴くままに、美しさを感じ取ってみよう。
自分が何を求めているのかを知るために。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。