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【読み放題対象】イデオロギーの勝利とはお気持ちの勝利である① ~なぜ人々は自国旗損壊罪に反対したのか~

さて、国旗損壊罪の話である。

今日も今日とてイデオロギーの勝利を求める人たちは、そのイデオロギーゆえに恐るべき他者への共感性のなさを発揮していた。しかし今日は少し前に燃えた国旗損壊罪について語る。たぶん、また蒸し返されるであろうからだ(いや実際に、今日、蒸し返しをみた)。

一応まず最初に私の立場を書いておくが、別に私は自国国旗損壊罪に賛成していない。とはいえ決して、「国家の尊厳より自由は尊い」とか考えているわけでもない。そもそも「国家vs自由」の戦いと考えるのは、論の枠組みとして錯誤をねらっている。
私は、「余計な権力を減らそうという立場の自由主義」と、「民衆の役にたつなら権力は大きくしてもいいという立場の民主主義」のせめぎ合いだと考えている。富裕層やインテリは自由主義を支持する傾向があるが、民主主義を支持するのは個々で力をもたない「民衆」である。

ではなぜ賛成しないか。単にわたしは邪智暴虐の人間なので、「日本国国旗を燃やすようなやつらは、自らの痛さをわざわざ社会に向けて表現してくれているのであり、それを取り締まる必要はない」という考え方だからだ。むしろ処罰するなど、彼らに温情を与えてやるに等しいとすら考えている。要するに自滅ねらいだ。
同じことは、自由主義インテリ界隈の首魁である青識氏からもリプをいただいたので、答えておいた。

国旗を焼くということは、話し言葉や書き言葉のみで行われる「純粋言論」ではない。要するに、政治的パフォーマンスの「象徴言論 symbolic speech」である。今回の国旗損壊罪をめぐる話ではほとんど低位なイデオロギーの煽りあいで始終し、たとえば「その行為で思想を表現する意図さえあれば、あらゆる行為が無限界に『言論』とみなされ得るのか」等のアメリカで国旗損壊を罪とするのは違憲ではないか最高裁で論点になったような話は一切でていなかったようだ…。まさにイデオロギーのお気持ち闘争なのである。

たとえば、路上で旗の上に脱糞する行為も思想を表現する言論となるのだろうか。OK!言論だ(ということにしよう)。

だが想像すればわかるが、現代日本ではそうした下劣なインパクトによる「象徴言論」は、「国民性」からいっても、ほとんど成功しないといってもよいだろう。「象徴言論」とは、普通の言論活動では注目されないような人たちが、露悪的またはショッキングで威圧的な方法を採用することで、とにかく衆目をあつめることが目的となりやすい(一言でいえば中身のない言論である)。

かつては意味があったのだろう。しかしSNSが発達して誰もが自分自身で情報を発信できるようになった世の中は、実は新自由主義的な意味で残酷である。
今までのように自分たちの意見が広く訴えられないのは、自分たちが(出版新聞等のメディア等に)不当に抑圧されているからだと自身を慰めることすらできなくなった。SNSやその他ネットを利用すれば、その人自身のマーケティングセンスやコンテンツ力、そして努力と継続だけでいくらでも影響力をもてるのであり(それがマスコミ凋落の最大の原因であるが)、反対に「しょうもない・くだらない・つまらない」意見の持ち主で見せ方にも工夫がない人間は影響力がない。それを挽回するための「悪目立ち」「炎上」のようなものは絶対的に長期の支持を得ない。

このような中で、「象徴言論」はすぐに物笑いの種の提供や、その組織自体の信頼を喪失するだけで、ほとんど意味がないのだ。どういうことだろうか。説明していく。


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