「この星の記憶」
なにをもって他人の生命を後から「犬死だった!無駄死だった」ということができるのだろうか。なぜ「死者は、今の私達と繋がっている」といえるのか。今、クリアに書いておきたいと思う。別に「かわいそうだから」とか「そうしないと気の毒だから」というわけでは全然ない。
「目が覚めると1945年の日本だった」――
発端は、現代の女子高生が昭和20年の大日本帝国にタイムスリップして当時の”若者”である特攻隊員と出会い、恋に落ちるという話だ。この原作の『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』は、もともとケータイ小説であり「泣ける」を売りとしていた。
これだけ聞くと愚にもつかない恋物語のようだが、この映画化の宣伝で特攻隊員役の俳優が「今ある平和っていうのは、昔 、特攻隊の人達が沢山いてくれた上で成り立ってるものなんだな」というなにげないような感想が「大炎上」した。
火をつけた人は、「JKがタイムスリップして特攻隊員と恋する映画やべえ!演者が普通にこんなこといってるぞ!」と晒し上げて燃やした。そして言い放った言葉が以下である。
「特攻隊員の死は現在日本の平和と繁栄にはなんの寄与もしてない犬死なのです」(そのように教えないといけない!)
こうした言説は普遍的にリベラル界隈で需要があるらしく「特攻隊は犬死です」「特攻隊は日本国民を護ることなど全くできませんでした。 だって結果は日本の無条件降伏です」などという言葉は、永遠のマンネリズムとして繰り返される。たとえば、以下の通りだ。
なるほどなるほど「どうせしばらくしたら米ソ対立が激化し、アメリカ様が東アジアの反共の防波堤として、平和(日米安保)と経済発展を日本の愚かなる土人どもに下賜してくださるのは、私達のような先を見通す賢い人達にはあまりにも明らかすぎる確定した未来」なので、無駄な抵抗などはせずに、さっさと無条件降伏し、アメリカ様の飼い犬になれば犬死にしなかったワン!ということですね???
そもそも戦争とは残酷非道を行うものであり、殺し合い技術の洗練であり、「効率」や「成果」で評価するなら、生命の尊厳の話では全くなくなってしまう。なぜって、敵の命をより多く殺戮して(直接的にではなくとも補給線を断つなどして)自己の政治意思を相手に強要すればいいのだから。もし神風特攻隊が赫々たる戦果の連続でアメリカをたちまち膺懲したなら、人の命などどんどん爆弾にして大正解だったね!日本軍は賢いすごい!となるのだろうか。
むしろ「特攻のような生命軽視の鬼畜の愚行を繰り返させないのだ!」という万能の正義ポジで実際には、単なる後付の知恵(事後孔明)で「お前ら国のために死んだのはアホだったのだ。負け組なのだ」と、「嘲笑」と「全能感」を消費しているわけなのだ。
そうして、彼らは大抵、「特攻隊員たちは私達を守ってくれたわけでも幸せを祈ってくれてるわけでもなくて無能な軍の上官に『死を強要されただけの被害者』なんだ!」等いいだすのがセットである。
そして特攻隊員とイスラム過激派テロを同一視するような記事(素粒子)をつくって有名な朝日新聞なども「特攻隊員がみんな喜んで出撃は本当なのか?」という特攻の特集を飽きもせずにつくる(死にたくないは人間の本能なんだから、喜んで出撃するわけがなかろう――)。だが、これは戦後すぐ当時の小説家が「戦争中は殉国の精神で護国の花と散った特攻隊がはやらなくなって、終戦後は『死にたくない』強要された特攻隊員とされてしまった。一方から一方に偏るのはこの世でもっとも廃すべきもので、人を愚かにする」などと日本の言説空気を嘆いている。
――相変わらず戦後70年以上もたつのに戦後すぐはじまった「空気」に支配されている。実は「特攻は戦果が殆どない犬死であり、特攻隊は軍が強制した可哀想な被害者論」は終戦直後、一種の「癒やし」としてはじまった非常に便宜的な話法なのだが、彼等はもちろんそんなことは知らない(後述)。
そうして、彼等がその後、言い出すことも変わらない。「ネトウヨは知能が低いのでわからないだろうが、私達が『犬死』というのは特攻隊員を侮辱してない!ただ『犬死』を強いた無能な軍部を叩いてるだけだ!」「特攻隊員も、後世の日本人たちが自分たちを英霊扱いで、精神的オナニーしてると知ったら憤死するだろうな!」などとむしろ特攻隊員の気持ちに勝手に憑依して、死者の政治利用を行う。
一体、なにがここまで彼等を発狂させるのか。
令和のインパール作戦はっじめるよ~!
そのヒントは、「特攻隊は犬死です!まったく意味なかった」みたいな言説をやんやと持て囃したり、旧日本軍の精神主義や作戦を嘲笑してきた界隈が、その舌の根も乾かないうちに、いざ能登半島で大震災がおきたら、被災地へ自衛隊を大展開させろといいだした。「補給を軽視して兵に無謀な作戦を強要する旧日本軍的とされてきた作戦」はむしろ、こうした人々の「民間圧力」によって引き起こされると明らかにしたという意味で特筆すべき事件であった。
「政府の対応がおそい!(←実は全然遅くない)」「被災地に自衛隊を1万人つっこませろ!」「とにかく大量にヘリをどんどん突入させろ」と主張しだした。
なにしろ朝日新聞のような大手メディアですら、ネットの後追いで、すっかり抑圧していた本来の好戦的な性質を取り戻し、戦前回帰し(なんの専門家でもない文芸評論家等を動員して)「できない理由を探すより(やれ!!!!)」といった紙面づくりを本当にしたのだ。こうした「空気」に逆らえない恐ろしさは、あの大東亜戦争が証明したのではないか?
たとえば着陸地点の人員も確保できてない不安定な場所へ「ヘリコプターを使えばもっとできるじゃないか」とかいかにも素人な思いつきも、峻険な地勢で滑落の危険性のある道路にとにかく1万人投入させるのだ!も、若く将来有望な自衛隊員達を一つの尊い生命とは考えていたとは思えない。
とにかく大兵力投入ありきで、専門家が立案した計画を否定し、補給も兵站も安全確保も現地のインフラ状況もなにも無視して、「今は他ならぬ非常時であるぞ!」と自衛隊員たちを豆腐のように能登半島に投げつけようとした。
普段は「インパール作戦がー!兵は国家の消耗品だった!日本死ね!」という人達が、「愚かな作戦を兵に強制する空気」を醸成しているアイロニーである。
なぜそうなってしまうのか?
実はこれらは全部つながっている。なぜ彼らがこれほど特攻隊を謎の幼児的全能感で「犬死!犬死!」「今の日本の平和や発展は特攻隊員たちと関係ないんだよ!特攻隊員は誰も守れなかったし、今の日本にはなんの役にもたってない。犬死なのです!守ってくれないし、一切ありがたがるなよ!感謝するな。この愚民ども!」仕草をやめられないのか?
もちろんあなたも、「特攻隊は犬死なんだ!」と叫ぶ彼等が生命の尊厳を大切にしている平和主義者とは到底考えていないだろうが(むしろ攻撃的で陰湿なる人々である)、彼等こそが精神の深いところで「特攻隊を生み出した人々」と分かちがたくつながっているのだ。
能登半島地震で、被災地へ自衛隊を補給も安全も軽視して大展開させろという「リベラル」の人々の狂奔はその氷山の一角にすぎない。もっといえば、実は戦後ずっと「この日本で”犬死”をつくりだそうとしていたおぞましき勢力」こそが彼らだからだ。
どういうことかといえば、当たり前の話だが、彼らはそれこそ、実際に「特攻隊員は無駄死に、それでいいじやん」というようなことをあっけらかん
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