「難聴者と中途失聴者の心理学」第6章読書感想文。

第6章 聴覚障害児における心理臨床的問題

いまは生後3日で新生児聴覚スクリーニング(障害の早期発見をめざすもの)ってのがされてるんだね。えらい。まあ僕の場合は後天的なのでこれには引っ掛からないのだけど。

章の前半では難聴を診断された新生児の保護者の心情や悩みについて説明されている。まぁそうなんだろうなぁと思って読んだけど、この手の話を聞くといつも思う。

僕、生きてるんですけど?

聞こえないのは僕、見えないのは僕、手足がないのは僕。そりゃあなたにも不安や困りごとがあるでしょうけど、僕はこれがあたり前で普通に幸せなんだけどな。

まるっと受け容れてくれる。

僕の姉が、僕たちの父親を評するときいつもでてくる言葉。そういう親父だった。

癌で余命宣告を受けると人は5つの段階を踏むと言われている。

まさかと否認し
なぜと怒り
どうにかと祈り
うつになり
最期に受容すると。

親父は宣告を受けた瞬間に4段飛ばしで「ありがとうございました。悔いのない人生でした。」と言ったらしい。ずっと笑って入院生活していた親父の受容や死生観は誇りで、たびたび僕はこの話をする。

章の前半の話を読んでいると、まるで余命宣告されたかのように感じてしまう。

「僕」を受け容れてほしい。

とはいえ、不安だよね。

そしたら本を読んだり、しかるべき場所での相談や支え合いのできる群れに入ったりするといいと思う。って本にも書いてあった。

受け容れるとか綺麗事だけじゃなくて経済的時間的な余裕がないという現実もある。だから姉は子供をつくらないと言っている。そういう苦悩もあるよな〜。

助け合える社会だといいですね。僕は電車の中の子供の泣き声とかも気にならないけどな〜。耳悪いからか笑

平等に愛してほしい。

章の後半は、障害児の発達に合わせてどんな心理的課題があるかについて説明されてるんだけど、前章までの感想でなんとなく言ってる気もするので割愛。

とにかく理解してくれる家族と友人がだいじ、とだいたい書いてあった。家族にはきょうだいも含まれてて、「平等に愛してほしい」という言葉には、読んだ人それぞれにも思うところがあるんじゃないかな?

さいごに恒例の自分語り。

この本はグループでの共著になってるので色んな事例がみれて楽しいのだけど、僭越ながらまた僕の話を。

難聴はなかなか理解されなくて悩むのだけど、特にほしいものは「ゆっくり、はっきり」と話してもらうこと。決して大きな声ではなくて。これは僕も頭でわかってるのに、人に聞き返されると声が大きくなりがちで難しいのだけど。

そうやって悩みながら大学まで生活してきて、前章noteに書いたように社会人になってから補聴器を試し、買う決意をしてお店に行ったときのこと。

店員さんはとっても「ゆっくり、ハッキリと」しゃべっていて、それに加えて「やわらかく、やさしい」対応をされていました。店員さん全員がそうでした。

「この人たちは神か?ここは天国か?」と衝撃をうけたことを記しておきます。

30年以上前だけど、僕が小学生で初めて受診をしにいったとき、まず耳の検査をした。みんなもよくやっている普通の、あれ。聞こえたら押す、聞こえなかったら押さないを僕は忠実にやっていただけなのに「あなたふざけてるの!?」て怒られたのは結構トラウマ。

あ!あと思い出した。おなじように耳の悪い子と恋をしていたときのこと。僕が聞き返すとその子は僕の耳にくっつくほど唇を近づけて、ちいさくハッキリと話してくれた。惚れてまうやろーーーー!その発想はなかった。

僕も他の障害者にたいする理解があるわけではないし、あるいは障害がなくたってグレーだって、みんなそれぞれ、ちがう。少しでも今そこにいる相手を理解しようと、みんながそう思えたらいいね。隣の人を愛そう。


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