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庭ぐらしダイアリー walking

寒くなってきた近頃。
まだ寒さがそんなに厳しくないので、夕方がほどよく気持ちいい。
そんなわけで、最近は仕事帰りによく散歩している。

歩くのは好きだ。
昔から、一般教養、くらいに母から「歩く」ことを叩き込まれた。
それから、すっかり歩くのが好きな人間になったのだ。

歩くしか、わたしには手段がなかった時代もある。
お金がないときは、交通費を浮かせようと、せっせと歩いていた。

もちろん、歩くというのは交通手段だけではない。
自分と繋がれる、歩くってそういう側面もある。
自分が動いて景色が変わっていく時間。

歩いている時に出会う景色が、全く別の世界に感じることがある。
あるサーファーが「自分が壁の向こう側」にいる時がある、と言った。
それがわたしが歩きながらボーッとしている時に感じている世界だった。

昔、友人に「その世界が「はてしない物語」(ミヒャエル・エンデ)の「虚無」の世界のように見える」と言われたことがある。
その時は「はてしない物語」も読んだことなかったし、友人が何を言っているのかよくわからず、生返事をした。

少し時間を経て、「はてしない物語」を読んだ。
数年前だからうろ覚えだけれど、「虚無」は言葉通り虚しいもので、自分たちの力がなくなっていく、みたいな存在だったと記憶している。
友人は、わたしの”イっちゃった”姿が、そんなふうに見えていたのだ。

ただ、他者と自分からの見え方は違う。
それは恍惚、ってわけでもないし、恐怖、ってわけでもない。
ただじわっと溶けていく感じだ。暖かく、あたりと一体化する。そして、空っぽの状態が、時間とか物質の概念を超えて、やってくる。

わたしの中に流れるその偉大な時間は、数字の時間の概念からだいぶ離れてしまっている。
その時間をできるだけ作ろうとしているけれど、肉体を持った物質世界においては、その時間だけをとることはできない。(基本的な生活がままならなくなる)

二つの世界のバランスを考えなきゃならんなあ、とやっと気づいた。
そんなふうに思いながら、歩き続ける今日この頃である。

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