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叫びたいことと勉強

なぜか歩いていると、突然「〇〇だ!」みたいな気持ちになってくる。
今日は、「理由なく感動したり、かっこいいって思っていいよね!!」と響いた。

なんなんだろう、これは。
いわゆる叫びたいくらいの声が響いてくる。
瞬発性でパッと出てくる。なんか不思議な感覚だ。
大方、誰に言いたいのかよくわからないことかつ啓蒙的な言葉が多い。
誰かを啓蒙したいというより、自分を啓蒙したいのだと最近気づいた。

話は変わるが、今、勉強している。
それも、あんまり何につながるかわからないことに。もっと役に立つことやればいい、と思うけれど、まあいいか、とも思っている。

多分勉強は自分の人生の半分以上を費やしてやっている。
勉強、というとちょっとかしこまってしまうのだが、何かを知りたい場合、それはネットサーフィンでも学びになると思っている。そうなると、人生全てが学びだと言える。
しかしながら、わたしが最初に言った勉強はいわゆる机に向かって、という勉強だ。
結局今ふに落ちたことは、「どんなペースでもいいから、ささやかに積み重ねる」という使い古された常套句だった。
自分で言い聞かせているのと、ふに落ちるのでは全然違う。
やっと、そうやんな!と思えた。

これは状況にもよるかもしれない。受験期にはメンタルコントロールが大変で、理想(自分がこうしたらいいと思う時間の使い方や勉強法、集中力)に全然届かなくて、それに悩んだ。勉強に、というより、自分が掲げた目標を達成できないもどかしさに悩んでいたし(のだと思う、後付け)。

今も一応目標はあるにはあるのだが、正直、そこに到達しなくてもできることはいっぱいあると思う。ただ、一つ掲げておくと、そこに向かう上で必要なことがわかってくる。準備もそこへ向かう一部だ。

昔、塾で無駄に難しい問題を出され(学校で習うこと以上、今思うと中学生の時に高校で習う内容をかじらされてた)、なんだよこれ、と思ってたけれど、それは受験に受かること(知ってた方が早いとか)だけじゃなくて、その先(高校の授業を受ける時)のためだったんだなって後でわかった。

1度目の受験で自分が生きるか死ぬかくらい(今思うと120パーセント出そうとした)の勉強をしてて、その時の追い詰めがあったから成功したと思ったが故に、その成功体験が呪縛となった。次の受験では、受験の意味を問い始め、答えがない答えを探った。受験、という意味ではなんとか成功(?)したものの、わたしの中では失敗みたいなものだった。なんとか滑り込めた、くらいの感じだった。だからこそ、大学でいろいろ体験して、その意味を見出してやる!みたいな前のめり精神で過ごせたのはよかったかもしれない。結局なにが良いかわからない。

そして、次へ。過去を踏まえて、明確じゃなくても自分なりの理由ができてから、ということと、追い詰めないで一歩一歩進めることだけ決めた。ぼんやりと「したいな」から「する」に変わると、なんとなく必要なことも見えてくる。例え何年かけても、やろうと腹をくくれると、なんか楽になってきた。中途半端にやりたいことだとできないが、何回もやろうとしたがっていることはちゃんと戻ってこれる。

早くにさっさとやっていこう、ではなくて、長い目で見て考える。それは、わたしができなかったことで、これからトライすることだ。

できるかどうかわからない。はっきりした答えはわたしで探すしかない。すべてどうなるかわからないが、それはおいといて、先へ進む。一見関係ないようなことでも、つながっていくだろうと根拠はあやふやだけど、確信がある。

言い訳しながら、ぐるぐるしながら、自分を励ましながら、日々進む。

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