うきつあそびつ【第一回:エントリー】

これは何?

おはこんハロチャオ!これは第32回日本クラシック音楽コンクール、略してクラコンに伴奏者として挑戦した5ヶ月間の記録です。

たまに勘違いされるのですが、僕は特に音楽の才能とかないです。母親のお腹の中でモーツァルトを聞かされていた訳でもなければ、家族に音楽やっている人間もいないし、正月の格付けチェックの演奏も当てたためしがありません。褒められると嬉しいから、とかそれくらいの気持ちで細々と音楽を続けてきた普通の人です。

そんな僕にとって今回の伴奏は、自分の力量を明らかに超えた無謀な挑戦でした。それでも若さゆえの向こう見ずにまかせて無様にもがいた日々を忘れないために、こうして書き残しておくのです。

目覚め

艶やかな鍵盤にそっと手を置き、Aの音を鳴らす。ホールの静寂を破ってAがポーンと響き渡る。少し遅れて同じ音が重ねられた。出だしのわずかなうなりが止んだのを確認し、ソリストはこちらを見て小さくうなずいた。そっと微笑みを返してから、鍵盤と対峙し直す。

立ち上がりは極めて静かな場面から始まる。墓地に眠る無数の魂を不用意に刺激しないように。そんな気持ちで最初の和音の準備をする。

弾く、という意識はもはや無い。重力に逆らって腕を支えていた力をふっと抜くことで、ちょうどリンゴが木から落ちるように腕が自分の重みで自由落下し、指先の鍵盤が下がり、その力が、数百年の歳月をかけて洗練されてきたからくりによってハンマーに伝えられ、弦を打った。僕が脱力した、それだけで広いホールは厳かな墓地に様変わりした。

サクソフォンが旋律を奏で始めた。長い眠りから目覚めた魂が吐息交じりの声で嘆くような、そんな音。魂は揺らぎながら肥大し、徐々に温度を上げてゆく。僕は負けじと上昇する音階で対抗する。しかし頭は冷静で、テンポがもたつき冗長にならないよう常に気を配っている。嘆きはついに頂点を越え、最後は持てる力をすべて使い果たしたかのように、静かに、遠くに、収束した。

次の楽章は一転して冒頭から細かい連符が続く。軽やかに、遊び心満載のサクソフォンが、飛ぶ、跳ねる。次はピアノの番だ。鍵盤上で指を駆け巡らせ、先ほどのサクソフォンと同じフレーズを奏でる。

なんて素直なピアノなのだろう!「こんな音を出したい」が全て形になる。いかようにでも表情をつけられる。サクソフォンとともに、溜めたり、飛んだり。まるで陽だまりの草原で二人おしゃべりしながら遊んでるみたいに……

虻《あぶ》がふいに茂みの中へ消えていくように、最後の一音を弾き終えた。

あー、楽しかった!

ソリストが表現する世界を一番そばで楽しむだけでなく、そこに参加させてもらえもする、こんな素敵な営みが他にあるだろうか!

伴奏の喜びを知った、16の夏。

怠惰

部屋に寝転がって、伸びた爪を眺める。大学生になり、吹奏楽団とピアノのサークルに入ったが、ピアノは月に2、3回程度しか弾いていない。サックスも、かつての部活動時代ほど身が入らない。かといって勉学もほったらかし、友達作りもろくにしていない。特に深い理由は無い。ただなんとなく全てが面倒くさいのだ。

スマホを手に取りTwitterを開く。何の気なしに過去のツイートを遡っていると、「大学生になったらまた伴奏をする」という予備校時代のツイートが目に止まった。

あったなぁこれ。受験勉強ばかりの淡白な日々から逃れたくて、大学生になったらあんなことこんなことしたいって妄想ごっこしたときのだ。あの頃あんなに焦がれていた音楽を、今ではこんなに蔑ろにしている。

最後に伴奏したのは高一のときだっけ。伴奏は中学生の頃もしていたけれど、あの時のソリストは音楽科に通っている先輩で正直レベルが違った。あの伴奏、めちゃくちゃ大変だったけど楽しかったなあ。当時の努力や情熱を思うと、今の自分の怠惰の浅ましさが浮き彫りになって、嫌な気持ちになった。

そのまま月日は過ぎ、初めての期末試験が近づいてきた。ああさすがに勉強しなきゃなと重い腰を上げようとしていた夜、大学のサックスの先輩からLINEが来ているのに気付いた。何の用事だろうと思いつつ、タップして開く。画面に表示されるメッセージ。

「クラコン出るんだけど伴奏お願いできませんか?」

打開

まず、えっ、とこぼして、次に、小さな奇声を上げながら部屋の中をぐるぐると歩いて回る。突然舞い込んできたチャンスに、驚きやら嬉しさやら怯えやらが、胸の中で渦巻く。これまで出会ってきた歳の近い演奏者の中で一、二を争うほど上手なあの人の伴奏を、この僕が?

真っ先に後悔が生まれた。大学入学以来の3ヶ月間、ピアノにほとんど触れてこなかったことへの後悔だ。少し前にテレビドラマで聞いた台詞が脳内に響く。「日々鍛錬し、いつ来るとも分からぬ機会に備えよ。」耳が痛い。今の自分に、あの人の伴奏が務まる自信は皆無だ。怯えに胸を明け渡しそうになる。

それでも伴奏を引き受けたがる夢想家の自分と、断りたがる現実家の自分が猛烈な勢いで論争する。またとないチャンスを見過ごすのか?いや今のお前に弾ける訳が無い。馬鹿、全力で練習すれば間に合うだろ。否、どうせ途中でまた怠惰にやられるのが関の山よ……

「ごちゃごちゃ言っとらんで挑戦しろ!!」

突如現れた第三勢力!誰だ!4年前の自分だ。あの時舞台上で見た景色が蘇ってきた。自分一人では到底目にすることのできなかった風景だ。俺はあれをもう一度見たいのではなかったか?次はもっとすごいものが見られるんじゃないか?あの輝きのためなら怯えにだって打ち勝てるのではないか?……

「挑戦したいです」気付いた時にはそう、入力していた。

僕はとんでもない仕事を引き受けてしまったのかもしれない。

予選まで、残り51日。

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