見出し画像

邪馬台国 機内説VS北九州説

邪馬台国は近畿にあったのか?
それとも九州にあったのか?

 現在、有力なのは畿内説ですよね。大和朝廷自体は近畿にあったというのが明白なので、その前身となるであろう邪馬台国は近畿にあったと考える方が確かにベター。
 ただ、近畿地方に住んでいる方や地図を見るのが好きな方はすぐに分かると思いますが、奈良県やその周辺から金印をもらうために魏に行くなんて無理。山を何個も超えて海にたどり着いた後、日本海から東へ行くのか?西に行くのか?の二者択一をして、西に行き、沿岸沿いをひたすら山口県に向かった後、対岸に見える陸へ向かって行くなんて、知っているから出来ること。

 逆に北九州説の有力地、佐賀県吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だったとした場合、大きな山を1つ越えれば海に到着し、海を見ると、島が見える(対馬)。対馬を一周するとやっぱり島が見える(壱岐)。壱岐まで行くとさらに陸が見える。
 見えるところに行こうとするのはやっぱり、人間の冒険心として正しいと思う。やっぱり、北九州説の方が感覚的に説得力がある。

画像1

 もう一度改めて言っておくが、これは戯言独り言であり、私は歴史探求者でもなく、陰謀論者でもない。あくまで私の持つ雑学のなかから文章を書き起こしているだけなので、誤った知識が入っている可能性を含めながら読み進めていってほしい。

 まず、日本書紀や古事記といったものは8世紀あたりに、日本を統治するのは天皇であることが正しい歴史・伝統であり、今の世は神の子孫=天皇のお陰で成り立っている。これを国として正式に世に送り出したものである。
 当然、書いた人間には今で言う既得権があり、自分たちに良いように記述していっている可能性を否定できない。正しく記述していたとしても、口伝で語り継がれた物語をまとめたという性質もあるので、どこかで誰かが嘘をついている可能性も否定できない。なにより、神様が日本に降りてきて統治し始めるという話は神話として空想的に考えるのであれば良いが歴史書と考えると違和感がある。

 ただ、先述のとおり、正式に世に送り出したものなので、説得力は必要である。空想(嘘)と説得力(現実)を同時に実現させるには、人々が納得できるように嘘を現実に変換する必要がある。

 時々議論になる卑弥呼=天照大神とする説なんかがそうだと思う。

 記憶を呼び起こしていくと、邪馬台国は荒れに荒れていた。それは男が長として治めているときのことだ。そこに女王として卑弥呼が治め始めると争いは治ったと習った人は多いと思う。
 天照大神の弟、素戔嗚尊(スサノオ)も荒くれ者で、争いを好んだらしい。また、天照大神は太陽の神で、卑弥呼は鏡(光)をシンボルにしていた。さらに天照大神で有名な話、天岩戸の話。天照大神が岩戸に隠れたため、世の中に闇が広がり、出てきたから日も登った。

 実は卑弥呼の時代に2年連続で皆既日食が日本で観測できている。そしてそれは西に行くほど分かりやすく太陽が欠けていた。つまり、近畿地方よりも九州地方の方がより鮮明に確認できたということだ。
 正確ではないとは思うが、1度目の日食のころ、卑弥呼が亡くなる。そして男の王が立ったが内乱が起こり、2度目の日食のころ卑弥呼の親族の台与が女王となり、再び平和になる。

まとめると
①卑弥呼が亡くなる
②日食が起きる(アマテラス隠れる)
③内乱が起きる
④台与が女王となる
⑤日食がおきる(アマテラスがでてくる)
⑥内乱が終わる
以上の出来事を神を持って説得力を与え、卑弥呼の子孫である(天皇?)我々は神の子であると証明したということだろう。

 ここで考えたいのは、天孫降臨の地は宮崎、天岩戸は宮崎、日食は西に行くほど色濃く見えた。先述したが、これらすべて舞台が九州であることを示していると考えられることだ。それでもなぜか近畿には卑弥呼の墓とされる古墳がいくつかある。そしてそこは正式に誰の墓なのかについて言及されてはいないし、宮内庁により発掘や立ち入り調査は周辺および墳丘最下段のテラス部分までとされており、埋葬場所までの調査が禁止されている。

 雑学レベルでの知識でも畿内説<北九州説と九州に邪馬台国があったとするほうが納得できる。それでもなお、畿内説の方が学会などでは有力視されており、九州説を唱えるものは馬鹿にされる現状にあるらしい。
 そして、畿内説を有力説にすべき発掘調査に関しては、なぜか「宮内庁」に禁止されているという点を疑問に思う。
 天野高原、要するに宮崎あたりの天孫降臨の地付近は当時、技術的に遅れていた地域という話もある。稲作などが始まっていた弥生時代、効率よく収穫が出来ない宮崎エリアの人々は周辺の効率よく収穫が出来ている土地を奪って行く。この侵略が正式には葦原中国平定につながり、最終的に国譲りとなると考えられる。

 いつの時代もそうだけれど、侵略戦争というものは際限なく続いて行く。たどり着いた先が大和朝廷。要するに奈良県だと思う。
 つまり、邪馬台国は九州から侵略をすすめ、奈良県にまでたどり着いたんだと思う。
 ではなぜ、宮内庁は頑なに邪馬台国(卑弥呼)とつながる発見を嫌がるのか?

 非常に突飛な発想となるが、おそらく大和朝廷が機能する前に、内乱、対立がおこったのではないだろうか?
 起こった内乱、対立により勝利したのは卑弥呼からつながる神の系譜に乗っていない勢力。そうなると自分たちが治める正当性が疑問視される。なぜならば、神の系譜が途絶えていあるから。
 そこで事実を隠し、日本書紀等を編纂し、自分たちが正当な継承者だという後世に残る証拠を作ったとは考えられないだろうか?

いただいたサポートだけが僕のお小遣いです。ジリ貧(死語)