ドラマの中にいる「僕」
『GO HOME~警視庁身元不明人相談室~』の第一話を観た。感想を書いているうちに気がついたことは、「鑑賞を通して知るのは自分自身である」ということ。ドラマの考察やストーリーの解釈が苦手な自分が辿り着いたのは、ドラマの中にいる登場人物との同化だった。でも、その同化は行き着く先があった。それが、「全く独立した自分自身の視点」。登場人物を通して抱いた感情は、決して登場人物の感情と同じではなくて、どこまでも自分自身の感情でしかない。だからこそ、鑑賞時の自分の体調や気分、人数などが、鑑賞によって得るものを変えることも分かった。
つまり、このドラマを観て抱いた感情は、今の自分の感情を映し出したものである。
「Go Home」をしたい人と、してほしいと願う人
「帰りたい人」だけでなく、「帰ってきてほしい人」がいる。
バスケットボーラーの男。この人は「帰りたい人」。死んでしまったので、正確には「帰りたかった人」。バスケチームの同僚は、「帰ってきてほしいと願う人」。
同僚が「もし自殺だったら軽蔑する」と言ったのも、帰ってきてほしかったからこそのセリフだったのだろう。その男の人生は、「帰ってきてほしいと願う人」がいる限り、自分だけの人生じゃない。自殺は身近な人に対する無関心の現れでもあるから、「悲しみ」だけでなく「怒り」も含まれてた。
夫の遺体を見た後に見る未来
その死んでしまった男の妻は、同じように「帰ってきてほしいと願う人」。夫の死を受け入れられずに身元と会わずにいたが、妻が夫の遺体と会う決意をした後、何を思っただろう。揺るがない膨大な悲しみが目の前にあるのに、面会によって前に進めるかは分からない。
ここで自分のことを知る。僕は「前に進む」と言う言葉を本質的には知らない。前に進むってどんな感覚なんだろう。喪失感は無くなるの?変化するの?言葉では聞いたことがあるけど、自分の人生においてこの「前に進む」という感覚は僕にはまだ分からない僕には、ドラマにおいて妻がどのような感情を抱いたかは分からない。
身元不明の遺体が帰ってくる一方で、その"身"さえ帰ってこない人もいる
真ちゃんの「忙しくしてた方が嫌なこと考えなくて済みますから」「記憶喪失にでもなったらどれほど楽か」「私はもう、待ちくたびれました」というセリフ。この仕事にこだわる深い理由がありそうだった。身元不明の遺体がいる一方で、その遺体すら帰ってこない人もいるだろう。
恐らく真ちゃんも、「帰ってきてほしいと願う人」なのかもしれない。
自分の死について考えていた人が、人の死に対して鈍感なはずない
「死ぬ時はもっと衝動的に、魅了されて、踏み止まることができなくなってしまう」という桜のセリフ。一度死に"魅了"された桜だからこそ、死因の特定に至ったのかな。自分の死について考えていた人が、人の死に対して鈍感なはずない。この仕事にこだわる理由がよく分かったシーンだった。
生きながら帰る場所がない人がいる
桜が母親の電話を無視したことと、過去に飛び降りをしようとした過去が関係があるのなら、桜は物理的に家に帰る場所がありながら帰れない、もしくは帰りたくない理由があるのかもしれない。そういう意味では、桜は生きていながら帰る場所がないという、自分の仕事とは真逆の状態なのかもしれない。
「帰ってきてほしい人」がいる真ちゃんと、「帰りたい人」である桜。そう考えると、この二人が別の意味で「Go Home」を捉えていることが、今後の相談解決に繋がってくるのかな。二つの視点の「家に帰る」。
同化といえども結局は「自分」
これまで書いた僕の言葉はすべてドラマと関係がないと言って良い。ドラマの中に作り出した「自分」が、登場人物や出来事を解釈し生まれた言葉に過ぎないのだから。これが、鑑賞だと思う。ストーリーの先読みでもなければ、登場人物への共感でもない。当然、僕がこのストーリーで注視しなかった点は、僕の生活でも注視していないことなんだろう。それが良いか悪いかは分からない。
僕は、自分を知るために『GO HOME~警視庁身元不明人相談室~』を観る。
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